眠れない。
時を刻む時計の音だけが聞こえる暗闇の中、私は寝返りをうつ。
眠らなくてはいけない。明日は大事な日なのだから。そう考えて、そう考えることによって、私はまた思考の循環に陥っていく。明日は大事な日。失敗できない日。だからだからだから。
眠れない。時計の音だけが耳にひびく。
「お嬢さんを私にください」
たった一言を言うのがなんと難しいことだろう。
私は明日、祐巳との結婚の許可をいただきに福沢の家に行く。
祐巳とのつきあいも同棲も、快く許してくださったご両親だけれども、結婚となるとどうだろう。善悪いずれにせよ、祐巳のこれからの人生を縛ってしまう人間になるのだ、私は。祐巳のことをいたく可愛がっているご両親。私にもあんな娘がいたら、それを奪い取るような人間を許せるだろうか。
「祐巳、どうして居ないの」
今夜、ベッドの片側は空いている。
祐巳は実家に帰っている。それとなく伝えておいたほうがいいですから、ということらしい。まあ心配することはありませんけどね、うちの両親は祥子さんのこと大好きですから。そうあっさりと笑って祐巳は出かけていった。
祐巳、どうして居ないの。大丈夫だって、笑って欲しいのは今なのに。
眠れない。そしてまた寝返りをうつ。
あれはどうだろうか、これでいいだろうか。そんなことを考える。
眠れない。私は眠れない。
「祥子さん、大丈夫?」
祐巳は軽やかにハンドルをきって、車を流れにのせた。顔は前方を向いたままだけれども、ちらりとこちらを見た視線には、心配成分がそれなりに含まれている。
「……大丈夫よ」
本当は眠かった。結局昨晩はほとんど眠れなかったのだ。おまけに車酔いまで襲ってきた。だけど、わざわざ実家から迎えに来てくれた祐巳には、悪くて言えない。
「着くまでもう少しかかるから、眠っていて」
「……大丈夫よ」
今眠ったら、起き上がれない。そんな気になる。ええい、しっかりしなさい、私!小笠原の名が、紅薔薇の名が泣くわよ。そんな気合いとともに、私はバッグから常備している酔い止めの錠剤を口に放り込む。
「あっ、大丈夫?」
「……大丈夫よ」
そう、今日は大事な日。この小笠原祥子が、この紅薔薇様が、眠気や車酔いなどに負けてなるものですか!
「いや、眠そうなときに、乗り物酔いの薬なんて飲んだら……」
「……そういうことはもっと早く言ってちょうだい」
そのとおり。乗り物酔いの薬は眠気を誘うのだ。私のばか。それから、祐巳、八つ当たりしてごめんなさい。そんなことを考えながら、私の意識はどんどんと暗闇に引きずり込まれていった。
ふと、額にひんやりとした感覚を感じた。優しく心地よく安心できる、そんな気持ちになる重さを感じた。目を開けると、祐巳に似た面差しの女性が目に入ってきた。祐巳のお母様だ。
「起こしちゃったかしら」
「お母様、私いったい」
そこまで言ってから、今の自分の状態に気がついた。私は祐巳のベッドの上で横になっていた。頭がすっきりしている。目をつぶっていたのは10分、20分というレベルではあるまい。
そこまで考えが及ぶと、私はがく然とした。つまり、私は結婚の許可をもらうため、相手のご両親に会いに来たのにもかかわらず、御挨拶も何もなしに、いぎたなく眠っていたのだ。
目頭が熱くなってきた。情けない。眠かったのも仕事が忙しいなどというもっともらしい理由ですらない。単に自己管理ができていなかった。ただそれだけなのだ。こんな半人前の人間がどの面下げて、お宅のお嬢様をくださいなどと言えるだろうか。
「ごめんなさい」
「あらあら、まだ気分が悪いのかしら」
「いえ、そうではなく」
お母様は一瞬きょとんとした表情になってから、にっこりと微笑まれた。そして、手を私の頭の上において、なでてくださった。
「お母様?」
「祥子ちゃんは、祐巳ちゃんから聞いたとおりの子ね」
「なんて言っていましたか」
「『我が侭で高びーのくせに、責任感が強くて、すぐに自分を追いつめちゃう』って」
「祐巳ったら」
「祐巳ちゃんは能天気すぎるから、ちょうど釣り合いが取れていいのかもしれないわね」
そこまで言うと、お母様は辞色を改めて、私に向かって頭を下げられた。
「祐巳ちゃんを、娘をよろしくお願いしますね」
「そ、そんな!お母様、頭を上げてください」
私は慌てて身を起こした。お母様はまたきょとんとした表情になった。ときおり祐巳の見せる表情にそっくりだった。
「えっと、祐巳ちゃんもらってくれないのかしら?」
「い、いえ!それはもらいます。絶対もらいます!」
びっくりしたけど、よかったわ、と笑ったお母様に、今度は私が頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。その、半人前の私ですから、絶対幸せにするとかお約束できませんけど、祐巳と二人でがんばっていきたいと思っています」
昨晩考えていたような格好の良い言葉ではなく、ぶつ切れの舌足らずの言葉だったけれど、お母様は微笑んでくださった。
そのとき、ドアの外で祐巳の怒ったような声が聞こえてきた。
「ちょっと、あなたたち、何やってるのよ。早く二人を呼んできてっていったのに。ご飯が冷めちゃうでしょ!」
「わっ、祐巳、バカ静かにしろよっ。」
「祐巳ちゃん、もうちょっと待ってあげたほうが……」
ばたーん、という音とともに部屋のドアが開いた。祐巳に背中を押されて、祐麒さんとお父様がどたばたと部屋に入ってきた。「あ」「やあ」となんだかバツの悪そうな表情をしていた男性二人組だったが、やがて照れ臭そうに言った。
「えーと、祥子さん。バカで傍若無人な姉だけどよろしく。って叩くなよ、祐巳」
「あ、うん。祐巳ちゃんはいい子だから。その、祥子ちゃん、これからもよろしくね。」
私はお母様と目を合わせた。ぷっと二人同時に噴き出した。笑い出した私たちを、三人は不思議そうに見ている。
祐巳と出会えて。この人たちと出会えて良かったと思った。
--- 追記 ---
福沢家ダイニングにて。
「お義父さま、お嬢さんを私にください!」
「お義父さまと呼ぶのはやめてもらおう!可愛い娘をそう簡単にやれん!!」
「しかし、お義父さまッ!」
お義父さまはムムムッとした表情で私をにらんでくる。私も必死で見返す。お義母様はあきれ顔でこちらを見ている。
「お父さん、バカな事はそろそろやめにしたら?祐巳ちゃんも祥子ちゃんもあきれてるわよ」
「そうは言ってもなぁ」
一転して破顔したお義父さまが私に笑いかけてくる。
「一回言ってみたかったんだよ、この台詞。祥子ちゃんも付き合わせて済まないね」
「いえ、私も一度は言ってみたかったのでほっとしています」
そうだ、あれだけ悩みに悩んだのに一度も言えぬとは残念ではないか。……祐巳、なんなの、そのあきれ顔は。
「祥子さんって、ステロタイプなの好きだよね」
正統派と言ってちょうだい。