Get To You..






 高等部を卒業して早3年。気付けば就職活動も無事に終り、学生最後の夏休みを翌日に控えたある日。

「もしもし」
「あ、祐巳さん?由乃だけど」
「お久しぶり、由乃さん。」
「うん。久しぶり。あのね、今から会えないかな?ちょっと話があるんだけど」

 終業式当日のあまりにも急なお誘い。こんな日に空いているのはバイトもサークルもしていない自分くらいかな。などと考えつつ、同じ大学に通いながら1ヶ月ぶりに会う親友との再会に心が踊る。電話を切りバス停に向かっていた足を、大学から徒歩5分の島津家に方向転換した。




「えっ!?」

 招き入れられた島津家二階の由乃さんの部屋には、これまた久しぶりにお会いする、麗しの元祖ミスターリリアンがアイスティーと一緒に涼やかに出迎えてくれた。既に大学を卒業されリリアン幼稚舎に就職された令さまとは春休みにお会いしたのが最後だった。だから、祐巳はてっきり互いの近況を語らい合うのかと思って腰を下ろしたのに。いや、確かに由乃さんの放った言葉は近況だったのだけど。

「私、支倉由乃になったの。祐巳さん」

 ただでさえ平均的な祐巳の頭が、唐突に投げられたその普通じゃない一文を素早く正しく理解できるわけもなく。

「・・・・へっ!?」
「先週の金曜日、7月7日に入籍したの、私たち」

 去年の夏に日本でも同性結婚が法的に認められたけれど、それでも未だ海外に比べると保守的な考えが一般的だから、親や周囲の理解を得るのは大変だと思う。でも由乃さんは、自分たちの場合は生まれたときからずっと一緒だったのだから当然の流れだと雄弁を振るう。

「うちのお父さんもお母さんも、令ちゃんのご両親も驚きより「あ、やっぱり」みたいな雰囲気が強かったよ」

 令さまは、仕事に就いて由乃さんを養っていけるようになった事が決心の最大の要因だと仰った。祐巳も驚いたけれど、やはり由乃さんたちのご両親と同じく自然な流れだと感じたので、ひとまずお祝いの言葉を述べた。

「おめでとうございます。それで、結婚式などはするの?」
「令ちゃんとも相談したんだけど、うちは披露宴とかあまり興味ないっていうか。それよりも皆で集まってワイワイしたいって思ったから、再来週の土曜日に親しい人だけで食事会をすることにしたの」
「他の人には昨日のうちに連絡して出席の確認は済んでいるのよ。祐巳ちゃんにも昨日電話しようと思ったんだけど、由乃がどうしても直接話したいって聞かなくてね」

 もう一人の親友、同じリリアン女子大の社会歴史学部に通う志摩子さんには昨日会って話したらしい。もし今日、祐巳の予定が悪ければ、ひとまず再来週の予定だけ電話で聞くつもりだったと令さまは教えてくれた。

「だって、暫く会ってなかったし。親友には直接会って話したいじゃない、こういう大切なことは。令ちゃんだって昨日祥子さまの家に行ったじゃない」

 祥子さま。

「ははは。由乃の言う通り。だから祐巳ちゃんに直接会って話すっていうことに反対しなかったでしょう?」

 祥子さまと最後に会ったのはいつだっただろう。3年間同じ大学の敷地内に居たはずなのに、お家の仕事で多忙だった祥子さまには普通の大学生のような悠々自適な生活は程遠く、大学構内で祐巳が祥子さまと会ったのは片手で数えられるくらいだった。忙しいお姉さまの負担にならないように、祐巳も自分から連絡を取ったりはしなかったから、二人が会うのはいつも山百合会のメンバーが集う時だけだったけれど、祥子さまが本格的に小笠原グループの一員となられたこの春からは、会うどころか受話器越しの会話さえほとんど無かった。

「祐巳さん。祥子さまとは連絡取ってる?」
「え、ううん。最後に会ったのは前回みんなで集まった時以来かな」
「前回・・・って、お正月じゃない。半年以上も会ってないの?メールとか電話は?」
「お姉さまがお時間あるときに掛けてくださるけど。ここ1ヶ月はないかな。あはは」
「あはは、じゃなぁい!何してるの?何で自分から連絡取ろうとしないわけ?信じられない」
「祐巳ちゃんは忙しい祥子の邪魔をしちゃいけないって思っているんでしょう?」

 さすが令さま。冷静に祐巳の心情を察してくれて由乃さんを宥めてくれる。

「でもね、祐巳ちゃん。祐巳ちゃんは試験やレポートで忙しいときに祥子から電話があったら邪魔だと思う?」
「いいえ!そんなわけありません。どんな時でもお姉さまからの連絡は嬉しいに決まっています」
「祥子もそうだと思うよ。それとも祥子は、可愛い妹を邪険に扱うような姉に見えるのかな」
「いいえ。お姉さまはたとえどれほどお疲れになっていても、そんな素振りも見せずに楽しくお話してくださると思っています」
「じゃぁなんで、祐巳さんは待てと言われた犬じゃあるまいし、そんなに頑なに受身を貫こうとしているわけ?」
「祐巳ちゃん。祥子ね、大学卒業してから今まで10回はさせられたかな。お見合い」
「おみあい・・・」
「もちろん祥子の気持ちなんてそこにはないのよ。でも立場上いろいろなお見合いを設定されて。その度に相手を不愉快にさせないように断って。そんな生活を送っているから精神的にも毎日キツイと思うんだよね。そんな時に大好きな妹の声を聞けたら癒されるんじゃないかな」

 初めて聞かされる話だった。祥子さまと連絡を取っていない祐巳だから知る術など無いのは当然で。それでも、祥子さまと自分の環境が天と地ほどに違っていることを改めて思い知らされる。

「そうですよね。小笠原グループの一人娘ですもんね。お見合いくらいしますよね」
「祐巳さん!祥子さまが本当に好きなのはっ・・・ふぐぅ」

 沸点に達した水蒸気が昇るように、立ち上がって叫びだした由乃さんの口を令さまが大きな手で押さえて続くはずの言葉を遮った。

「祐巳ちゃん。祐巳ちゃんの声を聞くだけで心に張った氷が溶けていくようだって、祥子言っていたよ。祐巳ちゃんが祥子を世界で一番大切なように、祥子にとっても祐巳ちゃんは何者にも代えられない大切な存在だってこと、信じてくれる?」

 何者にも代えられない。でも、それは妹として。

「はい」

 それ以上言葉にすれば、瞼の奥の結界が崩れてしまうから、だから祐巳は何も言えなかった。

「相手を大切に想う気持ちを閉じ込めていたら、祐巳ちゃんの心が可哀想だよ。心は生き物だと思うんだよね。安全だからと言って一生日陰で生きるより、雨に打たれて風に吹かれても、お日様の下で精一杯生きるほうが幸せだと思うよ」

 それだけ言うと令さまは話題を変えて、祐巳が帰るまで二度と祥子さまの名前は出さなかった。

「じゃ、祐巳さん、再来週ね」
「うん。またね」

 由乃さんの家の近くのバス停ではなく、祐巳は祥子さまと初めて言葉を交わした思い出の場所へ足を伸ばした。夕方とはいえ夏至を目前とした今、日はまだ高く、微かに吹く風も生温かく暑さを助長するだけだった。けれど、祐巳と祥子さまを巡り合わせてくれたその方は、あの紅葉の季節と同じように静かな微笑を浮かべて立っていた。

「なぜあの人と出会ったのですか。この胸の痛みは、妹という立場に満足できなかった強欲な私への罰ですか。マリア様」

 吐き出した言葉は塞き止めていた涙も一緒に連れ出した。






「祐〜巳ちゃん♪」
「ぎゃぁうぅ!」
「相変わらずの甘い響きだわ♪」
「せ、聖さま!いい加減セクハラは卒業してください!」
「や〜だよっ。こんなに可愛い声が聞けなくなるくらいなら、一生留年した方が、マ・シ♪」

 ダークグレーのシンプルなパンツスーツに身を纏った姿は一見、性別不明のモデルのようなのに、中身は相変わらずの親父で。

「聖。今日は令と由乃ちゃんのお祝いなのだから、はしゃぎすぎないでね」

 祐巳の力一杯のあがきでも外れなかった聖さまの腕が、透き通るように響くその一声でリボンのようにスルリと解けた。

「蓉子さま!ごきげんよう。ご無沙汰しております」
「ごきげんよう、祐巳ちゃん。元気にしていた?就職活動は順調?」
「はい。お蔭様で内定を頂きました。来年から令さまの後輩になります」
「あら、ということはリリアンの幼稚舎で働くの?」
「はい。丁度来年の年明けに欠員が出ると令さまから聞いて応募したら、奇跡的に」
「祐巳ちゃんが幼稚園の先生かぁ。もう少し牛乳飲んで大きくならないと園児と区別がつかないんじゃないかな。特に胸囲が」
「せ、聖さま!」
「でも、楽しそうね、令と同じ職場なんて。おめでとう、祐巳ちゃん」

 蓉子さまにお祝いのお言葉を頂いて、3人でグラスを持ち上げるだけの軽い乾杯をした。立食形式の会場に、元山百合会と蔦子さん、真美さん、三奈子さまという面々は、祝賀会というより同窓会のような懐かしい雰囲気で、祐巳の心に穏やかな空気を与えてくれた。
 真美さんと三奈子さまと談笑していた祐巳の耳に、見なくても分かる、世界で一番愛おしい人の声が届いた。

「おめでとう、令、由乃ちゃん」
「ありがとう、祥子」
「お忙しい中わざわざお時間を作って頂いてありがとうございます」
「親友と可愛い後輩のためですもの。当然でしょう」

 一番離れた所に居ても、その間にどれだけの声が横切っても、不思議とその声は真っ直ぐに祐巳に届く。祥子さまが入り口の近くにいらっしゃった蓉子さまたちと合流したとき、令さまが挨拶を始められた。それまで談笑をしていた皆が、一斉に令さまの方へ体ごと向けるけれど、祐巳の視線は、令さまの近くに立つ、背中だけでどれだけ美しく気高いか分かるその人に釘付けになった。
光沢のある長髪。黒のタイトスーツ。膝丈のスカートから覗く白い肌。ワイングラスを握る細長い指。
7ヶ月ぶりに視界に入るその姿に、祐巳の心臓は飛び出さんばかりに速く強く打ちつけるけれど、それ以上に苦しく切ない想いが胸を締め付けて息ができない。

「祐巳。ごきげんよう」
「ごきげんよう、お姉さま。お久しぶりです」

 令さまの挨拶が終わって茶話会のような雰囲気になったとき、祥子さまが祐巳を見つけて来られた。本当は妹が先に挨拶に出向かなければならないことくらい分かっていたけれど、全身を駆けまわるざわめきを静めている間に、祥子さまが来てしまった。

「相変わらずお忙しそうですね」
「ええ。でも春先に比べれば仕事にも慣れたから最近はそれほどでもないわ。祐巳は就職決まったのですってね。おめでとう」

 でも直接聞きたかったわと、祥子さまは少し拗ねたような素振りをされた。綺麗な容姿に加え、可愛らしい仕草までされて、ときめかない人なんているのだろうか。などと、自分の胸の高鳴りに、誰に聞かせるわけでもない言い訳をしている自分が可笑しい。

「すみません、ご連絡差し上げなくて。会って直接ご報告したかったので」
「ふふふ。いいわ。今日は許してあげる。久々に会ったのに険悪な雰囲気になっては時間がもったいないものね」

 時間がもったいない。
 祥子さまの言葉は正しい。けれどその言葉は、喧嘩さえも楽しかった高校時代と、喧嘩さえできない今との違いをまざまざと見せつけるものだった。言葉を見つけられず、祥子さまの目を真っ直ぐに見る事もできず、化粧室に行くと言ってその場から逃げた。

 化粧室から真っ直ぐにフロアに戻る気になれず、途中にあったバルコニーに出た。都心にあるこのホテルから見上げた先に輝くものはなく、視線を下げた先に車のライトが光る川面を作っていた。眩いイルミネーションより、真っ暗な空間から存在を示す儚い瞬きに惹かれて、下ろした視線を再び上げた。本当なら太陽の光を浴びて神々しいくらいに輝いているはずなのに、漆黒の闇に阻まれて今にも消えそうな星たちに自分の想いを重ね、届かない光に手を伸ばす。

「馬鹿みたい」

 自嘲するように呟いた言葉と一緒に、頬に一滴、寂しさが零れた。

「祐巳?」

 突然聞こえてきたその声は張り上げたものではなく、けれどハッキリと耳に届いたから、すぐ後ろから来たものだと分かった。

(何故こんなときに)

 今一番会いたくない人に一番見られたくない場面で出くわすなんて。
 振り返ることも俯くことも、溢れた涙を拭うことさえもできなくて、ただ広がる闇を眺めていた。

「泣いているの?」
「由乃さんが幸せになって嬉しくて。えへへ」

 視線を合わさず必死に笑顔を作るけれど、頬に伝う雨は止んでくれない。

「そうね。令も由乃ちゃんも幸せそうだったものね。親友としては嬉しいわよね」

 祐巳から視線を外し、空に向かって祥子さまは独り言のように仰った。真っ暗な夏の夜空に祥子さまの白い肌が浮き上がって、言葉にできない美しさと艶やかさを醸し出すから、冷たい深海に沈めた熱い想いがゆっくりと浮上してくる。

「でも、由乃さんが羨ましいです」
「え?」
「何億という人の中で、恋に落ちたたった一人の人と同じ想いを持って一緒になれるなんて。奇跡のような話です」
「そうね。でも祐巳にもいつかそんな奇跡が訪れるわよ」

 あの日のマリア様と同じような祥子さまの優しい微笑みが、水面に浮かぶように揺らめき、祐巳の心を激しく揺さぶって。そして、胸の奥に抑えこんでいた何かが、弾けてしまった。
伸ばした手が祥子さまの白く細く滑らかな首に絡まる。固まって動けない愛しい人のこめかみから伝わる鼓動と熱が、祐巳の思考を掻き乱し全身の細胞を溶かしていく。

「祐巳?」

 突然の妹の行動に戸惑いが声色に表れていたけれど、触れている箇所から祥子さまの温かな体温が伝わって。

「好きです、祥子さま。誰よりも何よりも」

 溶け出した想いをそれ以上抑えることなど、できなかった。

「愛してしまいました。ごめんなさい」

 指先に触れる艶やかな黒髪はとても柔らかかった。

「勝手に好きになって。ごめんなさい」

 小さな腕の中で強張る雪色の細い体を、解き放った。


 そのまま家に帰ろうかと考えたけれど、途中で帰った祐巳を由乃さんたちが気にかけないはずもなく、お祝いの席で皆に心配かけるのは妥当とは思えない。それに、皆の前では祥子さまも何も言ってこないだろう。なんて、いつもより冷静に分析できる自分に自嘲しつつ、濡らしたハンカチで顔を拭いて会場に戻った。

 祐巳が戻って数分後に祥子さまがフロアに入ってくる姿が見えたけれど、祐巳は今日の主役の親友と他愛もない会話を続けた。それなのに、視界に入る祥子さまの姿がだんだん大きくなるから、真新しい傷の疼きに耐えられなくなって、迫り来る美しい人に背中を向けた。

「祐巳」

 祐巳の気持ちなどお構いなしでその人は呼びかける。近くに居た由乃さんに心配をかけないように、小さく一つ息を吐いて精一杯の笑顔で振り返った。

「はい、お姉さま」

 向けられた笑顔に一瞬困惑の色を浮かべ、でも、祐巳をその瞳に捉えたまま祥子さまは続けた。

「ちょっといいかしら」

 二人で話がしたいから外に出たいと言う祥子さまに、祐巳は首を横に振った

「ここを出てまでお話する事はありません」
「私はあるの」
「お姉さまが仰りたいことは分かります」
「分かっていないでしょう!」

 頑なな態度の祐巳に、祥子さまは今までにないくらい大きな声をあげられた。二人の間に漂う異様な空気に、それまで談笑していた面々が驚きの視線を向け、只ならぬ雰囲気に一早く気づいた令さまが、祐巳の隣にいた由乃さんの手を引いて少し離れた所に行かれた。

「慰めなんていりませんから、だから・・ほっといてください!」

 切ない想いが喉を詰まらせ、必死で叫んだ言葉は小さな涙声に変わっていた。滲む瞼を両手で覆った瞬間、腕が引っ張られ、冷房で冷えた肌に暖かさを感じた。

「・・ぃ・やっ・・」

 抱き寄せられたと気付いて、同情の温もりから離れようとしたけれど、祥子さまの細い腕は痛いくらいに強く祐巳を抱きしめて、切羽詰ったような震える声が耳に届いた。

「お願い、聞いて。祐巳」

 開いた傷に暖かな吐息が触れて、祥子さまの真っ白な腕の中で動きを失くした。

「ごめんなさい、あなたを不安にさせて。さっきは突然のことで、祐巳の言葉を理解するのに時間がかかったの。5年も想い続けた人だから、信じられなくて。動揺してしまったの」

 5年も想い続けた人。

「私は5年前のあの梅雨の日から、あなたが好きだった。でも姉という立場を失いたくなくて、どういう形であれ祐巳のそばに居たかったからずっと黙っていたの。その事があなたをこんなに苦しめるなんて思わなかった。ごめんなさい」

 5年前の雨の日。すれ違った二人が姉妹の絆を確固たるものにしたあの日。お姉さまに恋をしたあの瞬間。

「嘘」

 不意に出た祐巳の呟きに祥子さまは抱きしめていた体を離し、祐巳の頬に少し冷たい指先を置いて、揺れる黒曜石の瞳を向けた。

「嘘じゃないわ、祐巳。あなたが好きなの。ずっと一緒にいたい。姉としてではなく、令たちのように、あなたと共に生きていきたい。ずっとそう願っていたわ」

 夢のような言葉が瞼を刺激して、今日何度目かの雫が頬を流れた。

「祐巳。あなたを愛しているの。世界中の誰よりも」

 嗚咽を堪える喉は言葉を詰まらせるから、祐巳は黙って愛しい人の白く細い首に腕を回した。祥子さまの肩越しに友人たちの姿が見えたけれど、溢れる涙が全てを幻のように揺らめかせる。背中をさする祥子さまの腕が涙腺の氾濫と昂ぶる鼓動を鎮めてくれた。だから祐巳は、日陰に置いていた切なく熱い想いを、お日様の下に解き放った。

「愛しています。祥子さま」

 ありがとうと言った祥子さまの声は少し掠れていて、だけど祐巳を抱きしめる腕が力強くて、それまでの苦しさを越えるほどの、暖かく愛しい幸福に身を委ねた。



「ぅ〜うぉっふぉっん!そろそろいいかな、お二人さん」

 熱い抱擁を交わしていた祥子さまと祐巳の横に、いつの間にか辿りついていた聖さまの咳払いで現実に戻された二人は、今がお互いの親友のお祝いの場であることを思い出し、跳ねるように体を離した。
一気に頭に血が昇って口をパクパクさせていた祐巳の視界に、近付いてくる2つの影が映った。1人は駆けるように、1人はゆっくりと。

「祐巳さん!良かったね!良かった」

 終わりの方は涙声になりながら祐巳に抱きついて来たのは今日の主役の親友。

「本当に良かった」

 落ち着いた微笑に涙を滲ませて祐巳の手を握ったのは、もう一人の親友。

「あ、ありがとう、由乃さん、志摩子さん」

 親友二人の姿に安心して、祐巳はまた涙腺が緩んでしまった。感極まる三人の横では、令さまが祥子さまの頭を撫でていた。

「良くできました」
「何もしてないわよ」

 自分のことのように嬉しそうに笑う親友に、祥子さまは耳を薄く朱に染めながら不機嫌そうに答えている。

「ごめんね〜、祥子。いいところだったのに邪魔しちゃって♪あぁ〜でももう少し待って可愛い祐巳ちゃんが祥子に食べられる姿を拝むのも良かったかなぁ♪」
「せ、聖さま!」
「そうね。それも面白かったかもしれないわね。ふふふ」
「お、お姉さままで何を仰るのですか!」
「あら、恥ずかしがらなくてもいいじゃない?本当のことなのだから。あの状況でキスをしない方が可笑しいわよ」
「・・・・・」

 二人のお姉さまと親友のお褒め(?)の言葉に、祥子さまは先ほどより紅くなった顔に、大輪の華のような笑みを浮かべていた。

 会が終わりに近づいた頃、それまで蓉子さまたちと談笑されていた祥子さまが祐巳の元へいらして、散々流した涙で少し赤くなった祐巳の瞼に濡れたタオルを当ててくださった。

「あ、ありがとうございます」

 頬に当たる祥子さまの指の温もりが先ほどの熱い抱擁を思い出させ、それだけで祐巳の心臓は早鐘に変身したのに。

「え・・?」

 不意に額に感じた柔らかい感触に、タオルをずらし視線を上げた先に祥子さまの唇があって、その薄く艶やかな唇が、追い討ちのように耳元で甘く囁いた言葉に、祐巳の顔は茹蛸と鯉のハーフのようになり、そんな祐巳を見て満足そうな笑みを浮かべた祥子さまは、さっさと皆の元へ戻って行ってしまった。


 今夜はうちにいらっしゃい。お預けされた口づけはその時まで我慢するわね















「やっぱり、お婆ちゃんがいいんじゃない?志摩子さんのところは、お姉さまになるけど」
「私のところは構わないけど、乃梨子ちゃんはどう思うかな?」
「乃梨子は私が良いなら誰でもいいって言っているから、お姉さまでも大丈夫よ」
「じゃ、全員一致でお婆ちゃんと歩くということで決まりね」

 今は2月、ここは支倉家1階の居間。親友3人の会話の内容は。

「いまさら聞くのもなんだけど。なんで由乃さんは式を挙げようと思ったの?去年は入籍だけでいいって言っていたのに」
「そ、それは、2人だけじゃ寂しいと思ったのよ。やっぱり薔薇は3色揃わないと物足りないじゃない?だから、親友2人のために一肌脱いであげようと思ったわけ」
「でもあの時は、志摩子さんたちとも一緒に挙げるっていう話はなかったよ」
「大学卒業後すぐ、っていう同じ時期なら一緒にする方がいいでしょう。喜びも倍増ってものよ。っていうかね、祐巳さん。そんな細かいことばかり気にしてないで、次は料理と引き出物を決めるわよ」

 というわけで、3人は来月行われる、支倉・島津、藤堂・二条、そして小笠原・福沢の合同結婚式の打ち合わせをしているのだった。式1ヶ月前でこんなにものんびりとしていられるのは、式場が祥子さまの所有するホテルで、かつ、その日は3組のために貸切になっているから。そして、お婆ちゃん(又はお姉さま)とどこを歩くかというと、結婚式定番のバージンロード。

「ところで、祐巳さん。季節柄、料理には桜が使われる可能性が大きいと思うのだけれど、祥子さまは相変わらずお嫌いよね?」
「覚えていたんだ、志摩子さん。でも、祥子さまの嗜好はホテルの人たちはご存知のはずだから大丈夫だと思う」

 次期会長の結婚式を絶対に成功させるのだと、全従業員を挙げて準備をしてくれているらしい。

「じゃぁ料理はお任せにしたほうがいいんじゃない?祥子さま以外はそんなに好き嫌いないだろうし」
「そうね。そうすると、あとは引き出物かしら」
「親族と高等部の時の友人だけだから、だいたい50〜60人くらいかな。ほとんどが女性だから、大きなものは止めておいたほうがいいよね」
「年代も趣味も多彩だから、冊子から好きなものを選べる形式にしたらどうかしら」
「そうだね。その方法が出席者も楽しみかもしれないし、ハズレがないから最良の方法かな。祐巳さんはどう思う?」
「異議なし。わざわざ足を運んでもらって重い荷物を持たせるのは気が引けていたから、それがいい」
「オッケー。あと何か決めることあったっけ?」
「私のほうは何もないわ」
「私ももう大丈夫、だと思う」

「じゃ、会議はここまで。で、志摩子さん。引越しは終わったの?」
「ええ。先週末に。祐巳さんと祥子さまも日曜日に手伝ってくれたから、片付けもほとんど終わって、普通に生活する分には支障はないわ」
「そう。祐巳さんたちは年始にしたのよね?」
「うん。うちも今はだいぶ落ち着いたかな」
「いいなぁ。二人とも。新婚ほやほやって感じ」
「あら、由乃さんだって、こんな素敵な新築の家で新婚生活しているじゃない」
「慰めはいらないわよ、志摩子さん。新築といっても両家の真ん中に建てたんじゃ、新婚というより三世帯住宅だわ。こんなことなら祐巳さんや志摩子さんと同じマンションにすれば良かった」
「いいね、それ。右から煮物の香り、左からは由乃さんの叫び声。悪くないかも」
「祐巳さん!」
「ははは。冗談だって。近いんだから遊びに来ればいいじゃない」
「当たり前よ。令ちゃんだって毎朝祐巳さんを迎えに寄っていくだろうから付いて行こうかしら。それで、仕事はいつから始まるの?」
「幼稚舎は4月初めだけど」
「高等部も同じだけれど、3月下旬から研修も兼ねて少しずつ行くことになっているのよ」
「由乃さんは?」
「私は卒業式終わったらすぐ。といっても形式上だけよ。道場には先月から毎日行っているし」
「乃梨子ちゃんは、就職どうするって?」
「仏像関係の仕事に就きたかったみたいだけれど、趣味は趣味のままにしておこうと思ったみたい。そうしたら祥子さまからお誘いがあって」
「お誘いって?」
「あ、うん。祥子さまの秘書の方があまりの忙しさに悲鳴をあげたらしくて。それで、山百合会での乃梨子ちゃんの働きぶりを思い出されて、もし就職が決まっていないなら専属秘書になってくれってお願いされたらしいけど」
「ええ。それで、有難くお受けすることにしたみたい」
「乃梨子ちゃんと入れ替わりに、今の秘書の方は退職されるらしいから、それまでに引継ぎも兼ねて週2〜3回は手伝うことになるみたいだよ」
「秘書が忙しくて悲鳴をあげるなんて。それじゃぁその仕事をこなしている祥子さまって一体」
「う〜ん。確かにお忙しいんだけど、耐えられないほどではないと思うんだよね」
「それは、祥子さまと祐巳さんの感覚が麻痺しているか、今の秘書の人が祥子さまの迫力に気持ち負けしているんじゃない」

 はっはっは。って、由乃さん。よく聞くとそれは随分と失礼な言いようではないのだろうか。

「それなら乃梨子は大丈夫ね。祥子さまのことも、忙しいことにも慣れているから」

 ふふふ。って、志摩子さん。それはまったくフォローになっていないでしょう。

「でも、あまり無理はさせられないって仰って、もう一人誘おうと考えていらっしゃるみたい」
「へぇ。知っている人?」
「菜々ちゃん」
「え〜〜っ?!それは無謀じゃない?菜々は江利子さまのミニチュア版ってこと祥子さまは知らないの?」
「ご存知なんだけど。なんていうか、菜々ちゃんの物怖じしない性格と、あの瞬発力をお気に召されたみたいで」
「なんだか楽しくなりそうね。ふふふ」
「・・・私、道場継ぐの止める」
「へ?」
「祥子さまの秘書になる」
「え〜〜〜〜っ?」
「だって、今の秘書さんはもう限界なんでしょう?乃梨子ちゃんの卒業まであと1年あるし、私が今年から入る方が何かと便利じゃない。それに、菜々の姉として、妹の暴走を止める義務があるの」

 菜々ちゃんが由乃さんの暴走をいつも止めていたような記憶があるのだけど、あれは幻なのか。

「祐巳さん。今夜令ちゃんと一緒に挨拶に伺うから。あ、志摩子さんと乃梨子ちゃんも一緒に集まろうよ。そうなると6人分の夕食は結構な量になるわね。じゃ、早速買出しに行きましょう」

 これを暴走と言わずに何と言うのだろう。志摩子さんまで賛同しちゃってるし。

「祐巳さん!早く行くわよ。志摩子さん、メニューはどうしよっか」

 あぁ、祥子さま、不肖な嫁ですいません。



「やっぱり祐巳さんたちの隣に住もうかなぁ」
「「え?」」
「だって、薔薇は3色揃った方が綺麗じゃない?」






おわり





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