Trinity − 1 − 祥子と祐巳の場合


 


トマトとフレッシュチーズの前菜。
アスパラ抜きのグリーンサラダ。
野菜と小エビの入ったキッシュ。
塩気を控えたコンソメスープ。
鴨肉のソテー ビネグレット風味。
各種季節のフルーツ。

時刻は丁度7時を過ぎたところ。
昼過ぎから下ごしらえに取り掛かって、
ようやく完成した料理を前に、祐巳は安堵と満足の吐息を漏らした。
取り合わせはともかく、今日は祥子さまのお好きなメニューばかりを揃えた。

祥子さまは、目下進行中のお仕事がやたらにお忙しいみたいで、
このところずっと深夜をまわってのお帰りが続いている。
土日も今日みたいに仕事や会合が入ったり、小笠原のご実家での法要やなんかで、
最後に二人でゆっくり話す機会があったのは、いつのことだか思い出せないぐらいだ。

夕食も最近では、外で済ませていらっしゃったり、
夜中に帰られて祐巳が作った夜食をつまむだけ、ということが多いから、
「今日はさすがに早く帰れそうよ。久しぶりに一緒に食事ができるわね」
と出がけに言い残した祥子さまのお言葉が嬉しくて嬉しくて。

だから。
今日は二人でゆっくり食事をして。
祥子さまには、食後にとっておきのダージリンを淹れて差し上げよう。


それから。

今日こそ、あのことをお話しするんだ。


――もうすぐ、祥子さまが帰ってくる。



 


「――全然大丈夫ですから、私のことはお気になさらないで下さい。
それより、お体が心配です。ご無理はなさらないでくださいね」

帰宅の予定を1時間も過ぎてから入れた謝りの電話に、
機嫌を損ねる風でもなく素直に応じた声に少し胸が痛んだ。
夕刻前に終わるはずだった担当チーム別のレビュー結果で、
一部の重複するプロセスを放置しておくと、重大な不具合を発生しかねないことが判明し、
急遽テストスケジュールの見直しとマニュアルの再構築の指揮をとる羽目になってしまった。
それでも、どうしても今日中に済ませなければならない事項以外は、
全てペンディングのまま放り出してきたのだが。
結局、マンションに着いてタクシーを降りたのは11時を少し回った頃。
心なしか、玄関のドアがいつもより重く感じられる。


「――ただいま」


ドアを開くとすぐに、ぱたぱたとスリッパの音が響いて。

「おかえりなさいませ、祥子さま。今日もお仕事お疲れ様でした」

「ごめんなさい。どうしても抜けられないアクシデントが起きてしまって」

出迎えてくれたのは、いつもと変わらない祐巳の笑顔。
祥子のバッグを受け取ってキッチンに向かう背中に向かって、謝罪の言葉を口にする。

「いいんです。それよりお疲れでしょう。
お風呂、沸いてますから、先にお入りになってくださいね」


こだわりのない様子の祐巳の口調を耳にして、逆に申し訳ない気持ちが募った。

早く帰る、という今朝の約束をあんなに喜んでいた祐巳が、
がっかりしていないわけがない。
仕事で疲れた祥子を気遣って、無理に明るく振舞っているに決まっているのだから。


通りすがりにキッチンを覗くと、きれいに洗い揚げられた食器や鍋の数から、
とっておきのご馳走を用意したであろう名残が見て取れ、さらに罪悪感が増した。

バスルームを出ると、いつもどおり食卓には軽食が用意されていた。
祥子は外で夕食を済ませていない日でも、遅い時間になると
あまり食べないことを祐巳は知っている。

食卓の椅子に座ると、祐巳は慣れた様子で甲斐甲斐しく給仕を始めた。
祥子は、用意された食事を摂りながら改めて詫びた。

「ごめんなさい。あなたにばかり負担をかけているわね」

「いえ。祥子さまは私なんかよりずっと重い責任を負ってらっしゃるわけですし。
それに、私だけの収入ではこんな立派なマンションには住めませんから。
私にも何かお手伝いできたらいいのにって。なんだか少し情けないです」

「祐巳、それは違うわ。
あなたの居る家に帰って、
あなたが作ってくれる食事を食べて、
あなたが整えてくれるベッドで休むこと。
いえ、そんなことより、祐巳が傍にいてくれる。
それが私にとってなによりの支えなのよ。
あなたにも大事なお仕事があって、
それなのにこうやって家庭を立派に守ってくれることに本当に感謝しているわ」

「そんな。私は残業はあまりないですし、
それに私のほうこそ、祥子さまがいてくださるだけで…」

―――

あと少し。
あと少しで、この社運を賭けた、というには少し大げさだが、
それでも今後の社命を左右する重要な布石となるであろうプロジェクトが収束する。


大学を卒業して、小笠原グループの若手幹部に名を連ねる傍ら、
現場経験を積むため傘下の企業に出向という形で籍を置く祥子には、一つの大きな目標があった。

財閥として、明治維新前から続く旧家として、
小笠原家は、経済的にも社会的にも文化的にも内外に計り知れない影響力を持っている。
代々の首相ですら、小笠原の威信から完全に免れることができた者は一人もいない。
その跡取りとなるべく産まれた一人娘として、
祥子は周囲からそれこそ一挙一動に至るまで注目を集めることに、幼い頃から慣れていた。

しかし、祐巳は違う。ごくごく一般的な庶民の出だ。もちろん、福沢家は決して貧しいとはいえないし、
祐巳は両親の愛情をいっぱいに浴びて育ち、きちんとした躾を受けた娘だけれど。
小笠原家とそれを取り巻く、いわゆるV.I.P.の中で、祐巳は明らかに一人浮いていた。
いや、世間一般の常識から考えれば、祥子を含めて、祐巳以外の面々の方がよほど異常なのだが、
それでも、ただでさえ衝撃的な同性結婚を公表した「あの」小笠原祥子の伴侶として
注目を浴びやすい立場にあるということもあって、祐巳に注がれる目は決して好意的とは言いかねるものもある。
さすがに祥子の背後に聳える小笠原家の威光を憚ってか、表立って中傷されることはないが、
時に祐巳に向かってあからさまに投げられる揶揄やさりげない侮辱を、祥子は敏感に察知していた。

祐巳はといえば、それらをさして気に止めていないことを祥子は知っている。
いや、逆に、それらから祐巳を護ろうと祥子が過敏に反応することを恐れ、
気にしていないことを示すために非常に気を遣っていることを知っていた。
祐巳は強い。
実は祐巳は祥子のそれより数段上のレベルの高いプライドを持っているのかもしれない。
下らない中傷などでは一筋の傷も付けられないほどの、ダイヤモンドのように純粋に輝く高い高いプライドを。
それに比べれば自分の誇りなどは所詮、自衛のための自尊心に過ぎないのではないか、と祥子は思うことがあった。

しかし、たとえそうであったとしても。
財産でもなく家柄でもなく、たまたま(運命、と思いたいが…)出会って
祥子と愛しあうようになっただけの祐巳には、何の責任も罪もないはずなのに。
暇をもてあました金持ち達にとって退屈しのぎの格好の標的になっていることを思うと平静ではいられない。
もちろん、出来る限り、そういった連中から祐巳を遠ざけるようにはしてるけれど。
パートナー同伴を必須とするパーティに、やむをえず伴うこともないわけではない。
祥子が知人に話しかけられて目を離した隙に、お高くとまった野次馬に取り囲まれていて、
後で笑いものにされることのないように、懸命に対応している祐巳の姿を思い出すと
知らずと怒りで目の前がかすんでくる。

私が、もっとしっかりしてさえいれば。
小笠原家ではなく、私自身が祐巳を護る盾になれれば。
未だ世間的には「小笠原家のお嬢様」に過ぎない祥子は、自身もまたそういった揶揄ややっかみの
対象でもあるから、そういう下卑た連中の口を封じるだけの実力がまだない。

私が、もっとしっかりさえしていれば。
一日も早く、「小笠原祥子」個人としての実力を見せつけて、祐巳を護る力を手に入れたかった。
――今回のプロジェクトの成功は、そのための大きな一歩となるはずだった。


「…さっちゃんて、近眼だったっけ?」
従兄弟である柏木優に会ったのは、ついさっきのことだった。
オフィスロビーの片隅で、帰れそうもないと祐巳へ告げる電話を切った後、
呑気に缶コーヒーを持ち替えていた彼がふと、そう問いかけた。
「いいえ。視力は悪くないわ。なぜかしら?」
「いや、なんでもない。ただちょっと、見えてないのかなと思っただけだよ」
「…どういうことかしら?」
訝しげに眉を顰めて問う祥子に、ちらりと白い歯を覗かせて微笑むと、
「ちょっとだけ、力を抜いてみたら?見えてないものが見えるかもしれないよ」
と言って、きざな仕草で片手を挙げ、祥子の返事を待たずに去ってしまった。

彼もいずれは小笠原グループの次期総裁候補の一人として
それなりの相手を伴侶に選ばなければならない身であるはずだが。
祥子との婚約を解消して以来、相手を特定することもなく
美人の誉れが高い秘書課の女性陣や受付嬢をせっせとからかったり、
若い男性とホテルに入る姿を目撃されてあらぬ噂が立ったりと、
相変わらずつかみ所のない生活を送っているようだった。
従兄弟として、小笠原グループの若手幹部同士として、
また、どうしても祐巳を伴わなければならない場合を除いてパーティへの同伴を頼むことも多いため、
柏木と顔を合わせる機会も多いが、祐巳という至宝を手に入れた祥子にとっては、
感謝はしていても、もはやさほど気になる相手ではなかったから、
その言葉に軽く小首を傾げただけで、休憩を終えて会議室へと戻ったのだった。


「…ごちそうさま。美味しかったわ」

祥子は箸を置いて、傍らで真剣な表情でリンゴをむく祐巳に語りかけた。

「祐巳。このプロジェクトが一段落したら、休みを取るわ。
家でのんびり過ごしても良いし、どこか近場で旅行に行っても良いわね。
久々に、二人でゆっくり過ごしましょう」


「はい…!」

予想通りの、嬉しくってたまらないといった満面の笑み。
そんな祐巳の笑顔がどうしようもなくいとおしくて。
空いた皿を下げようと伸ばした腕を捉えて引き寄せて、
暖かな身体をぎゅっと抱きしめた。

就寝の挨拶を交わしてまもなく、目を通していた書類を閉じた祥子は
祐巳の後を追ってベッドルームへと戻った。
茶色く落とした照明のなか、そっと掛け布団を持ち上げて祐巳の脇に滑り込む。
かすかに聞こえる呼吸の長さから、祐巳がまだ眠っていないことがわかった。


考えてみればどのくらいぶりだろう。
もう何日も祐巳に触れていない。


静かに手を伸ばして祐巳の髪を撫でた、いつもの合図に。


「……祥子さま、あの、ごめんなさい。今はちょっと…ダメ、なんです…」


やっと聞き取れるくらいの小さな声で、申し訳なさそうに祐巳が言った。

…ということは、月の障りだろうか。
祐巳の周期は大体把握しているが、今日がそれとの確証はなかったものの。


「…そう。わかったわ」

明日からはまた、しばらく帰れない日が続く。
少し残念に思いながらも祐巳の肩を抱き寄せて、額にそっと触れるだけのキスを落とした。


「おやすみなさい」



 


「…でね、令ちゃんたら最近では私に黙って菜々を家の道場に呼ぶようになっちゃってね。
菜々は菜々で、『どうしてお姉さまに断らなくてはいけないんですか』なんて言うし」

新しくできたショッピングモールのウィンドウをひやかしながら、
由乃はこぶしを振り回して一気にまくしたてた。

祥子がいない休日。
今日は久々に山百合会の同学年三人でランチをとる約束で集まった。
志摩子は家の都合で遅れるとかで、先に待ち合わせをして時間を潰していた由乃と祐巳は
ぶらぶらと街を歩きながら志摩子と落ち合う予定のオープンカフェに向かっている。

「それで、由乃さんはどうしたの?」

「もちろん、毎日お隣の道場で張り込みしてるのよ!だって悔しいじゃない。
令ちゃんたら『由乃はいつも手合わせの途中で興奮して乱入してくるから』
なんて意地悪言うんだもの。…そりゃ、たまにはそういうこともあるけど…」

「まるで根競べだね。どっちもどっちって言うんじゃない?そういうの」

相変わらずだね、と屈託なく笑う祐巳さんの方こそ高等部時代と変わらない、と由乃は思った。

祐巳さんが祥子さまとご結婚されてからもうすぐ3年。
小笠原グループの若手幹部として猛烈に忙しい日々を送る祥子さまを支えて、
祐巳さんは本当にがんばっていると思う。

時折、もっと一緒に過ごす時間があればいいのに、と漏らすことはあっても。
もとより文句や愚痴をこぼしたりする性質ではない祐巳さんと、
リリアンの神学科博士課程に在籍する傍らで、
京都の国立理学研究所に勤める乃梨子と遠距離恋愛を続ける志摩子さんと、
隣同士に住む令ともはや周囲に黙認された婦婦同然の生活を送っている由乃は、
こうやって定期的に集まっては、のろけ話に花を咲かせているというわけだ。


「大体、令ちゃんは菜々に甘すぎるのよ。そりゃ、孫は可愛いもんだし、私だって……
あ、もう志摩子さん来てたみたい。――志摩子さーーん!」

道の向こうに見えたオープンカフェのテラスからひらひらと手を振る志摩子に
大きく手を挙げて応えながら振り返ると。


半歩ほど遅れて歩いていたはずの祐巳の姿が消えていた。

「祐巳さん?」


焦って周囲を見渡すと、祐巳は10mほど後ろのショップの足元まであるウィンドウに
半身をもたれて立ち止まっていた。


「祐巳さん、どうしたの?体調悪い?大丈夫?」


駆け寄って肩に手を添えて顔を覗き込むと、青い顔をした祐巳がぎこちなく微笑んだ。


「…えっと、ごめんなさい。ちょっとふらっとしただけ。 …大丈夫、だから」


「大丈夫じゃないよ!顔、真っ青だよ。とにかくどこかで休んで…」


「……あ、痛っ…」


言いかける間もなく、祐巳は腹部を押さえてずるずるとしゃがみこんだ。


「え…?ちょ、ちょっと、祐巳さん!?どうしたの!?」


「祐巳さん!由乃さん!」

遠目から異変に気づいて駆け付けた志摩子が祐巳の様子にさっと目を走らせると、
半ばパニック状態で祐巳の肩を揺すぶっていた由乃にはっきりと言った。
「由乃さん、携帯持ってるわよね。救急車、呼びましょう」

救急車、という志摩子の言葉に。祐巳は、苦しそうに顔を上げて呟いた。
「…お願い、祥子さまには知らせないで…。今は、大事な、すごく大事な、お仕事が…」
消えそうな声で、お願い、ともう一度呟いて、祐巳はアスファルトの歩道に倒れ込んだ。



 


二泊三日の予定の国内出張。
三日目の夕刻に予定されていた会食をキャンセルして、祥子は帰宅の途に着いた。

日が高いうちに家に帰ることは本当に稀なことだったから、祐巳を驚かせたくて、このことは知らせていない。


突然帰ったら、祐巳はびっくりするだろうか。
するに決まっている。
きょとんと驚いた顔をして、すぐにくしゃくしゃの笑顔になって、
どんなに嬉しいか、どんなに驚いたかを隠さず告げてくれるだろう。


「ただいま」

ドアを開けると、薄暗い玄関と廊下が目に飛び込んできた。祐巳はまだ戻っていないようだ。
そういえば、今日は由乃ちゃんと志摩子と会うと言っていた。
…まあいい。それなら平気な顔で出迎えて驚かせるという手もあるし。

明かりを付けながらリビングに向かうと、留守番電話の残留メッセージを示す青いランプが点滅していた。
祥子は上着を脱ぎながら、電話を操作してメッセージを呼び出した。

『ピーッ

――祥子さま。由乃です。
祐巳さんはXX病院にいます。
命に別状はありませんが、今日はこのまま入院になります。
戻られたら、病院か私の携帯に連絡して下さい。
病院の電話番号は――…』


――瞬間、ぐらりと周囲の景色が傾いた。


――祐巳が?

―――病院に?


どういうことだろう、状況がさっぱりわからない。
テーブルに手を着いて、ふらつく体を懸命に支えるが、
がくがくと震える足は祥子の意思とは関係なく、床にへたり込もうとする。


――なぜ?

―――私は、祐巳を驚かせようと。

めちゃめちゃに混乱する頭で、それでも残る気力を総動員して。
震える指先で携帯を取り出し、由乃の番号をコールした。

二度目の呼び出し音で、相手が出た。
『―もしもし。祥子さまですね?
よかった。明日まで連絡がつかないかと心配しました』

聞きなれた声のはずが、赤の他人のように現実味がなく耳に遠く響いた。

「…ああ…由乃ちゃん?あの、メッセージを聞いたのだけど…意味がよくわからなくて。
祐巳が…、祐巳が病院にいるって…」

『ええ。さっき会ってるときにいきなり倒れたんです。
それで救急車を呼んで病院に搬送されて。
今は志摩子さんが付き添っています。
祥子さまは、祐巳さんの着替えと保険証をお持ちになってから、
病院に来てください』

――倒れた?祐巳が?
―なぜ?どういうこと?

呆然と携帯を耳に当てて黙り込んでいる祥子に、痺れを切らした由乃が電話越しに叫んだ。

『…祥子さま!しっかりなさってください!祐巳さんは今、入院してるんですよ!
祥子さまがしっかりしないでどうするんですか!
祐巳さんは、祥子さまの仕事を邪魔してはいけないからって、
お戻りになるまで連絡しないで欲しいって言って。
でも、祥子さまがいらっしゃるのをずっと待ってるんです!
ずっと我慢してるんですから…!!』

由乃の叱咤は、最後は涙声になった。
それを聞いて。
霧がかかったように混乱していた祥子の頭にすっと理性が立ち戻った。


「…わかったわ。すぐに向かいます。祐巳に、――あの子にそう伝えて」


電話を切った祥子は、続けてタクシー会社に電話をかけて配車を依頼すると、
すぐにベッドルームに向かった。
もう足は震えていない。
祐巳が待っているのだ。
依然として状況はわからないが、やるべきことは決まっている。
必要なものをそろえて、可能な限り速やかに祐巳のところへ向かうのだ。


ベッドルームに入った祥子は、祐巳のパジャマや着替えを
手際よく取り出して荷物を整えると、ふと思いついた。
入院とあれば家族の写真やお気に入りの小物など、
見慣れたものが手元にあるほうが落ち着くのではないか。
普段はプライベートな収納には手を触れることはないが、今は特別な時だ。

祐巳が、『宝物入れ』と呼んでいる引き出しを開くと、
アルバムや小物入れがきれいに整頓された、その一番上に。
――ピンク色をした一冊の小さな手帳が大切そうに置かれていた。


――――――――


タクシーが病院のエントランスに滑り込むと、
祥子はガラスの自動扉が開くのももどかしく、もつれる足で受付に転がり込んだ。
祐巳の居る病室を訊ねようと総合案内に駆け寄ると、
祥子の到着を待っていた由乃と志摩子が、人工皮革張りのソファから立ち上がった。

「祥子さま――…!!」
今にも平手が飛んできそうな勢いの由乃を押し留めたのは志摩子。
さすがと言うべきか、落ち着いた口調で祥子に経過を説明する。
「…生命に別状はないそうです。今は病室で眠っています。
担当の医師からお話があるそうなので、祥子さまがみえたらお呼びするようにと。」

「わかったわ。ありがとう、志摩子」

続いて祥子は、志摩子の脇に立って、唇を噛んで俯く由乃に声を掛けた。

「由乃ちゃん」

ゆるゆると顔を上げた由乃の眼を真っ直ぐに見て、
祥子はきちんと頭を下げた。

「ありがとう。…ごめんなさい」


――――――――


病室は6畳ほど大きさで、小さな洗面台と窓際に簡単なソファセットを備えた小奇麗なつくりになっていた。

祐巳は、片腕に点滴の針を入れたままで。
もう一方の手をお腹の上に置いて、安らかな寝息をたてて眠っていた。

音を立てないようにスライド式のドアを閉め、
ベッドの脇に置かれた丸椅子に静かに腰をかける。

「…祐巳」

声に出さずに呟いて。
祐巳のお腹に置かれた手に、そっと自分の手を重ねた。

『…ごめんなさい。私は何も気付かずに…』


さっき受付で対峙した由乃は、怒りよりも哀しみに満ちた目で祥子を睨み付けていた。
その瞳を見て。
あまり人の気持ちに敏感とはいえない祥子にも、由乃の気持ちが手に取るように伝わった。

幼いから心臓を患っていた由乃には、体調に異変を感じながら、
誰にも言えずに我慢する不安さや恐怖などが、痛いほど理解できたのだろう。

――なぜ、祐巳さんを放っておいたんですか?
――なぜ、ひとりぼっちで苦しませたんですか?

由乃の瞳に込められた想いはそのまま、祥子の胸に突き刺さった。


『私は、なんということを…』

堪えきれずに零れ落ちる涙を追うように、
掛け布団の上に顔を伏せる。

「…祥子さま…?」


必死に嗚咽を堪える祥子の耳に、かけがえのない愛しい人の声が届いた。

―――――――――――


まぶしい光がぼんやりと目を差した。
徐々に視界がはっきりしてくると、
それは病室の白い天井に反射した夕日で。

…ああ、そうだ。
さっき道で倒れたんだっけ。

おぼろげな記憶の向こうから、
祐巳さん、祐巳さん、と呼びかける由乃さんの声と、
そっと額を撫でて部屋を出て行った志摩子さんの手の感触が蘇る。


…って、あれ。手に、暖かいものが触れている。
暖かくて、湿ったなにか。
何よりも、世界で一番大切ななにか…


「…祥子さま…?」

少しだけ顔を横に向けると、
大好きな祥子さまの横顔が目に飛び込んできた。
顔を俯かせて。
最高級の絹糸のように美しく滑らかな黒髪が頬を横切って、布団の上に広がっている。
…涙?
祥子さま、泣いていらっしゃる?
悲しいことでもあったんだろうか…。


その瞬間。
はっと気づいて。
恐ろしい不安が胸を突き上げる。
体を起こしながら、点滴の刺さっていないほうの手で、慌ててお腹をさぐった。


「祐巳!起きてはダメよ」


「…祥子さま」


「大丈夫。…無事だそうよ」


優しく目元で微笑まれて。
それを見るとそうか、大丈夫なんだと言葉より確実に安心感が広がった。

両肩をやさしく支えられて、再び枕に頭を付けると、ほっとため息が漏れる。
祥子さまの手が、祐巳のお腹の上の手にふたたび重ねられた。


――そっか。もう知ってるんだ。


「ご存じ、なんですね」


「…ええ。さっきお医者様からお話を伺って」

「そうですか。…ごめんなさい。
本当は、ちゃんと私の口からお話したかったのですけど…。
あ、お仕事は順調にお済みになったのですか?
もしかして、私のせいで放り出して来られたんじゃ…」

言いかけた祐巳の言葉をさえぎって、
祥子さまが思いつめた様子で口を切った。


「祐巳。本当にごめんなさい。私、あなたになんて謝ればいいか…!!
仕事にかまけて、あなたに甘えっぱなしで、
こんなに大事な話を聞くことさえ怠けてしまっていたわ」

「そんな。祥子さまはお忙しくていらっしゃるから仕方なかったんです。
それに、わかってるんです。祥子さまが、こんなにお仕事に打ち込まれているのは
私のためだって。…私のほうこそ、タイミングが悪くて。
お邪魔にならないように、ゆっくり時間があるときに、
ちゃんとお話しようと思っていたらずるずる日にちがたってしまって…」

「いいえ!仕事なんかなんの言い訳にもならない!
いくら仕事を頑張ったからといって、
祐巳を、あなたを失ってしまったらなんの意味もないのに…!」

――裕巳が入院したと聞いたあの時。
世界が崩れ落ちるかと感じた。
しっかりと抱き締めて離さないと誓ったはずなのに。
腕の中の空白に気がついたあの瞬間の恐怖。
恐ろしくて。
ただただ恐ろしくて。
たった一つの大切な存在を、それと知らず手放してしまった。
一人ぼっちでこんなにも苦しませて。
そして、―― 夜毎二人で確かめ合った愛の、そのかけがえのない証を
危険に晒してしまったことを想うと。新たな恐怖で体に震えが走る。


再びあふれ出た涙を隠しもせずに想いを吐き出す祥子の頬を、祐巳の指先がそっとぬぐった。

「…愛しています。祥子さま。
祥子さまがいてくださるだけで、私は他にはなにもいらない」

「…祐巳」

涙で滲んだ目を上げると、いつものように柔らかい微笑みが祥子を包み込む。

『ありがとう。祐巳。ごめんなさい。これからはもっと…』

言葉にならない謝罪と感謝と愛情が、
それでもちゃんと伝わったことが祐巳の表情から察せられて。
祥子は横たわったままの祐巳に顔を寄せて、唇を重ねた。

体調を慮って少し短めの、だけど十分に愛情のこもったキスの後。
祐巳が、あ、と小さな声を上げた。

「祥子さま、ごめんなさい。間違えました」

「なに?どうしたの?」

少し驚いて聞き返す祥子さまに、
えへへとはにかんだ笑みを返して、祐巳は言った。

「他にはなにもいらないって言いましたけど。
もう一人だけ、大事な、大事なひとがいます。
あの、そのひとは、…来年の春がこないと、抱っこできないんですけど…」


「…そうね。本当に楽しみだわ」

祥子さまは、祐巳が息を呑むほど美しい、極上の微笑で応えて。
それから掛け布団をずらして、重ねた手の隙間から祐巳のお腹にそうっと、口付けた。


 


 


「もう、祐巳ったら!座っていなくてはいけないって言ってるじゃないの!」

「食事の後片付けくらいさせてください!
そんなに大事をとっていたら、なにもできないじゃないですか!」

-―夕食を終えたリビングで交わされるこの手の言い合いは、
数ヶ月前に祐巳が退院してから、もはや日常茶飯事となっている。


「――大体、家事程度の運動ぐらいしなくては、お腹の子供にも良くないんですよ」

口を尖らせて抗議する祐巳にもまったく頓着しない様子で、
祥子さまは洗い物の手を止めずに凛としたお声を張り上げて言った。

「だから祐巳には、私が組んだスペシャルマタニティエクササイズのプログラムを渡してあるじゃないの。
――まさかあなた、あれをさぼったりはしていないでしょうね…?」

「も、もちろんですよ。祥子さまの命令…じゃなくて、お願い通り、
朝、昼休み、入浴後と寝る前に一セットずつやってますってば」

「結構。あなたは何も心配しなくてもいいんですからね。
私に任せて、ただのんびりと楽にしていればいいのよ♪」

これじゃそののんびりと、ができないんだなあ、とため息をつく祐巳の耳に、
電話の着信を示す電子音(これも、祥子さまが以前のプルル…という音が胎教に悪いと
仰って、バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』に切り替えられていた)が響いた。

立ち上がってリビングの端にある電話機に向かおうとした祐巳を目で制して、
先にさっさと受話器を取り上げた祥子さまは、声を潜めてなにやら話をしている。


――たったの二日ほどで退院して、お医者様も、
いつもどおりの生活をするようにと仰ったにもかかわらず。
祥子さまは「これからは家事はすべて私がやるから」と宣言なさって、
その言葉どおり、これまでとはうってかわってほとんど毎日、
夕方早々に帰宅されるようになり、食事の支度や、掃除、洗濯といった家事を
なにもかも一人でこなすようになってしまった。

さすがに、産休までのあと数ヶ月間、祐巳が勤めを続けることにまで口出しはなさらないが
家事に一切手出しを許されず、ただひたすら座って
動き回る祥子さまに世話をされているというのは、祐巳にとってはなんとも地獄のような責め苦なのだ。

そればかりか、食事の内容は祥子さまが自ら計画し厳密にカロリー計算されており、
今祐巳の前におかれた湯気を上げるティーカップには、
ノンカフェインのココア(もちろん最高級のオーガニック製法の品だ)に、
カロリーオフの天然甘味料がスプーンに一杯と半分、きっちりと計量されて入れられている。

まったく、祥子さまはやることが極端なんだから…と、頭を抱えながらも、
祥子さまと過ごす時間が増えたことが嬉しくてたまらない祐巳なのである。

「――そう、じゃ、いつでも相談にいらしてね。
私も祐巳も心待ちにしていてよ」

電話での会話を終えたご様子で、受話器を置いた祥子さまが、
ちょっと不思議な表情で振り返った。


なにかあったのかな、といぶかしむ祐巳の前まで近づいてきた祥子さまが、
なんとも複雑そうな顔をして祐巳にこう告げた。

「…令が、おめでただそうよ」

 

 

おわり

 

 

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