Trinity − 2 − 由乃と令の場合


 


「―――ずるいぃっっ!
令ちゃんばっかり、ずるいっ!!
なんで、私じゃなくて令ちゃんなのよーー!!」


「よ、由乃、そんなこと言ったって…」


「ずるい!ずるいずるいっ!!
令ちゃんなんてもう知らないからっ!!」

「よ、由乃ぉ…――」


ばたんっと力任せに閉じられた部屋の扉。
どたどたと階段を駆け下りてゆく由乃の足音がこだまする。
ほうっとため息をついて、コタツの座椅子にもたれた令は、
お腹の上で組んだ両手をぽんぽんと軽く弾ませて呟いた。


「―――…… 困ったママですねえ……」



 

安定期に入ったということで、祐巳さんのおめでたが内々に発表されて。
祐巳さんと祥子さまが暮らすマンションで、
ごく親しい友人だけの簡単なお祝いパーティが催された日。


パーティに集まったのは、祥子さまがつぼみと呼ばれていた頃の薔薇様方と、
令ちゃん、由乃、志摩子さん、乃梨子ちゃん、瞳子ちゃんといった懐かしい山百合会の面々。

「――でも、授かった時点で女の子だってわかってるって言うのも、
ちょっと面白みに欠ける話よね」

ひとしきり祝いの言葉が飛び交った後、元黄薔薇さまこと、山辺(旧姓・鳥居)江利子さまが
あっけらかんとした口調で言った。

「んー、まあでもそういうもんだからさ。
しかし江利子も変わらないねえ、そういうとこ。
面白ければ何でも良いってもんじゃないでしょうが」

元白薔薇さまの佐藤聖さまが、
ビールを瓶のまま傾けながらうししと笑って答えた。

「いいのよ、面白ければ」

「――しかし本当に江利子らしいわよね。
男女の双子、それも産むまで双子だってわからなかったなんて」

もう十分飲んだでしょ、と聖さまの持つビール瓶を
横合いから取り上げながら、元紅薔薇さまである水野蓉子さまが口を挟んだ。

「あら。薄々気づいてはいたのよ。なんとなく二人いる感じはしたもの。
でも、どちらも標準より小さかったみたいだし、私も初めての経験だったから
はっきりとはしなかったんだけど。
それに、産むまでわからないっていうのがいいんじゃないの」

無論、分娩医療の発達した日本の病院では
そのように曖昧な事態など起こりえないのだが、
生憎と江利子さまは妊娠から出産までの数年間、
旦那さまである山辺氏の発掘作業について遠く南米の地に居留していた。
まあ、里帰りのために帰国せず、出産を南米の、しかも未開といわれる地域で、
さらには聞くだに怪しげな、付近の原住民の呪医の手で済ませたという事自体、
江利子さまの変人ぶり、――もとい、非凡さが伺われよう。

「――性別がどっちということよりも、この子以外の子は欲しくないですから」


まだはっきりとは目立たないお腹を大事そうに両手で撫でながら、
祐巳さんは幸福そうに笑って言った。

「ええ。祐巳の言うとおりですのよ」

祐巳さんを護るかのように背後から腕を回した祥子さまが、
祐巳さんの発言にかぶせるようにそう言った。


「それはごちそうさま。しかし祥子もやるねえ。
可愛い祐巳ちゃんが、どれだけ祥子に弄ばれたか目に浮かぶわー」

「せ…聖さま!!」

顔を真っ赤にして抗議する祥子さまの姿は
リリアン高等部時代に返ったかのように懐かしくて。

相変わらずね、と微笑む志摩子さんや、お祝いのプレゼントは何にしようかと
ひそひそ相談している乃梨子ちゃんや瞳子と一緒になってはしゃいでいたから。

親友のお祝いだというのに、いつになく静かな令ちゃんの様子に、
そのときはちっとも気がつかなかった。


――――――――――

安定期に入っているとはいえ、普通の体ではない祐巳さんを気遣って
比較的早い時間にパーティは散会した。


今思えば、自宅に帰る道すがらも、令ちゃんはどことなく上の空だったのだけど。
久しぶりに大好きな人々に会った興奮から由乃のほうがしゃべりっ放しの道中だったから、
いつもと違うと気付いたのは、帰宅して部屋のコタツに二人で腰を下ろした後だった。


「ねーねー、令ちゃん。紅茶、飲みたくなーいー?」

「…はいはい。今淹れてくるから、待ってて」

名目上は隣同士に分かれて住んでいるとは言っても、
実質令の部屋を新居と見なして、由乃はほぼこちらで生活している。
お隣の島津家には由乃の部屋がそのまま残っているので、
気が向けば行ったり来たりと、なんとも気ままに暮らしている二人である。

無論、幼い頃から我が家同然に出入りしている支倉家のキッチンは
由乃だって熟知しているから、紅茶ぐらい自分で淹れれば良いのだが。
まあ、その辺りは力関係というか、
大体はこのように、いいように令が使い回されるのが常であった。


「はい。お待たせ」

ほわほわと白い湯気の立った紅茶は美しく澄んだ赤。
高等部時代から定評のあった令の紅茶の淹れ方は絶妙で
おまけに由乃の好みは知り尽くしているから、外出先で紅茶を飲んでも
あまり美味しく感じない、というのは実に贅沢な悩みである。

――と、令の淹れた紅茶を一口すすって
満足そうに吐息を漏らした由乃の目に入ったのは、
同じく湯気の立つ湯飲みを手にした令の姿。

「なに?令ちゃん日本茶が飲みたかったの?」

「…ううん。これはほうじ茶」

心なしか目を伏せて令が答えた。
いつもは由乃がリクエストした飲み物と同じものを自分にも注いでくる令なのに。
大体、二種類の飲み物を淹れるとは効率の悪い話ではないか。

「ほうじ茶?なーんか急に老けたわねえ、令ちゃん。
そういえば今日はやけに大人しかったじゃないの」

そう呑気に揶揄する由乃に。
令は少し改まった口調で言った。

「――紅茶には、カフェインが入ってるからしばらく飲まないほうがいいの」

「へ?」

令の言葉の意味を取りかねて、由乃は祐巳さんのように間の抜けた声を発した。

「――あのね、由乃。もう2ヶ月、アレがきてない」


「…え?」

――瞬間、由乃の周囲で、刻が止まった。


「…ええっと、…あの、それって、まさか…」


「うん。…できたみたい。たぶん、間違いない」


言った、というより宣言した、に近い調子で令が放った言葉に。


由乃は『うそ…』と声に出さずに呟いた口を、
同じ形で開けたまま5秒ほどフリーズして。


次の瞬間、がたんと音を立てて立ち上がって叫んだ。
「―――ずるーいっ!!」


――――――――――

令の部屋を飛び出した由乃は、階段を駆け下りて
蹴破らんばかりの勢いで玄関を開け、
庭をショートカットして島津家に駆け込み、
自分の部屋へと飛び込んだ。その間、約15秒ほど。


(――ずるい!ずるい!なんで私じゃなくて令ちゃんなの!?)


興奮冷めやらず、部屋の中をぐるぐると歩き回り、
窓越しに令の部屋の明かりをきっと睨みつけた。

――正式な形ではないにしろ、事実上、周囲にも認められた
「令ちゃんのお嫁さん」である由乃にしてみれば。
先程の令の告白は、子供を産むという当然の権利を横取りされたに等しい話だった。


(――そりゃ、私にも原因がないとは言えないけど…。)


ないとは言えないどころではなく、原因そのものなのだが。
むしろここ数年の二人の夜の婦婦生活のあり方を思い返せば、
なるべくしてなった結果であるとも言える。

しかしそんなことはどこかの棚に放り上げて。
いずれは祐巳さんのように、令ちゃんの子供を産んで育てて、
世間一般の『お嫁さん』よろしく、ほのぼのとした明るい家庭を築ければ――
と当たり前のように考えていた人生設計が
もろくも崩れ落ちてゆくことに由乃は動揺しきっていた。


―令ちゃんが子供を産むってことは…。

今の二人の生活は、リリアン女学園中等部の体育教師として勤務する傍ら、
支倉道場の師範として、通ってくる小中学生の稽古をつけることで
支倉の伯父様から頂いている令のお給料を中心に賄われている。

二人とも実家暮らしで部屋代はかからないにせよ、
住居・光熱費として両家の親に毎月いくばくかの金を納め、
二人分の食事は基本的に親とは別にする、ということで
おおむね独立した生計を営んでいるのは、もっぱら令の働きによるものだった。

しかし、出産、子育てとなるとそのどちらもを、当面の間は休止せざるを得ない。


――その間、私が生計を支えるということで。


由乃は、近所の公立歴史文芸資料館の編纂員として勤務するれっきとした社会人なのだが、
定額の生活費と住居・光熱費の負担分を毎月の給料日に引きおろして令に渡すだけで、
後は好きなように遣っている。令は節約だ貯金だとしょっちゅう口うるさく由乃を言い聞かせているが。

いや、経済的な問題は、実家に暮らす二人だからいざとなればなんとでもなる。

それよりも、物心ついた頃から今に至るまで、どちらかというと一方的に令が由乃の面倒を見る、
という関係性が完全にできあがっていたが、分娩までの間、いやそれ以後も、
由乃は令の身の回りに対して、なにくれとなく気を遣わなければならない立場に変わるのである。

――どうすりゃいいのよ…

頭を抱えてベッドにへたり込んだ由乃のお尻を、
令が縫ったキルトのベッドカバーがふんわりと跳ね返した。



 

次の日の朝。

昨夜はあれから結局、夜中過ぎまで悶々と悩んでいた由乃は、
ジリリ―と容赦なく鳴り響く目覚まし時計に殺意を覚えつつ起き上がった。

日曜日は由乃の勤め先の資料館は休館日である。
だが、神聖な道場の床は、毎朝の支倉の伯父様の稽古の前に雑巾できれいに拭き清められることになっていて、
それは由乃の役目だったから、のんびり朝寝などしていられないのだ。
寝不足でふらつく頭を振りながら、由乃はいつものとおり、朝食前に道場の清掃を終えるべく、お隣を訪れた。

いちいち玄関からお邪魔します、なんて断ることはせずにさっさと横手の小道から道場へと足を踏み入れる。

道場の入り口で、正面に相対して軽く礼をした頭を上げると。
――きちんと道着に身を包んだ令が、正座して由乃をまっすぐに見詰めていた。

「おはよう、由乃」

「…おはよう」

道場の清掃は由乃の役目で、支倉道場の師範である令は、いつもは朝の稽古前のこの清掃の時間に姿を現すことはなかった。
『見れば手伝いたくなるし、それじゃ示しがつかないからね』と、普段から生真面目なところはあるが、
こと剣道に関しては堅物とも思えるほど形式を重んじる令であったから。常にないこの行動は、昨日の話以上に由乃をうろたえさせた。

「令ちゃん…」

昨日の今日であるから、令の行動があの話に関連したものであることは明らかだ。


「由乃、座ってくれるかな」

動揺のあまり反論する気力も失せて、令の正面にへたり込むように正座した由乃に。
やや曖昧な微笑を向けて、おもむろに令が口を開いた。

「由乃。昨日の話だけど。
由乃が、何を心配しているのか、わかってるから。
――こういうことになって、申し訳ないと思ってる。
でも、こうなった以上は、私はちゃんと、この子を産んで育てたいと思ってるから」

「令ちゃん…」

もちろん、そんなことは承知済みだ。
由乃だって、この知らせを歓迎していないわけではない。
…だけど、問題はそういうことではなくて…。

「――それに、由乃はこれまでどおりでいいから」

「…え?」

令の言葉を理解できずに、きょとん、と首をかしげた由乃に、
令はいつもの暖かい口調で言い聞かせるように言葉を継いだ。

「道場の師範も体育教師の仕事も、体が資本の商売だから、
こうなったらしばらくお休みするしかないけど、後のことはちゃんと考えてあるんだ。
――由乃には悪いけど、なんとなく、こうなる予感がしてたから。
道場のことは、子供たちの稽古を代わりに担当してくれるように、菜々ちゃんにもうお願いしてあるの。
菜々ちゃんは有馬道場の師範だけど、お祖父さまがご健在だから当分こちらに通ってもらうことは問題ないし。
ただ、有馬道場で教えている流儀と、支倉の流儀は少し違うから、
ここしばらく菜々ちゃんに来てもらって、支倉の作法と、通いの子供たちの癖やなんかを憶えてもらっていたんだ」

それで。
それで令ちゃんと菜々は、ここ最近ずっと、由乃を除け者にして道場で手合わせをしていたのか。
そう考えると、これまで意識していなかった令の行動が線でつながった気がした。
由乃の反応を待たず、令は穏やかな調子を変えずに言葉を続ける。

「あと、お金のことだけど。
育児休暇明けの生活費までは、私の貯金で賄えるように考えてあるの。
子供の頃からの貯金と、あと毎月のお給料から積み立てしてた分で、大丈夫だと思う。
それに、家事や身の回りなんかはいままでどおり、私が担当するから。
――だから、由乃は何も心配しなくていいよ。
これまでと同じように、好きなことをやっていて構わないからね」


――その言葉を耳にしたとたん。
由乃の頭にかあっと血が上り、胸に百万ボルトの灯が灯った。


「…なによ、それ」


言うべきことは言った、というように肩の力を抜いて、
どことなく満足したような微笑を浮かべていた令の表情が一瞬、固まった。


「よ、由乃…?」


――これは、危険信号だ。由乃の目が完全に据わっている。


「…どういうことよ。令ちゃん。
私に一言の相談もなく、なにもかも自分で決めたっていうの?
私にはなにも任せられないってこと?」

「そ、そういうつもりじゃ…」

おろおろと膝を浮かせた令の目の前で、
すっくと仁王立ちになった由乃は、
目をらんらんと輝かせ、道場中に響く大声でまくし立てた。

「―-できるわよ!
私だって立派に令ちゃんを支えて、一家の大黒柱になってみせるわ!
道場だって、伯父さまが今年中には師範代の免状を授けてくださるって言ってるし、
私が子供たちの稽古をつければいいんでしょう?菜々にお願いするまでもないわよ。
生活費!?はん!私の収入だって、やりくりすれば令ちゃんの一人や二人、
養えないわけじゃないもの」


言葉を失った令に、自信満々の不敵な笑みを浮かべて
びしっと指を突きつけ、由乃は高らかに宣言した。

「そうと決まったら、早速準備するわよ!
哺乳瓶、オムツ、乳母車…、ああ、ベビーバスも必要だわね。
令ちゃん、早く支度して。買い物に行かなくちゃ。
私が!必要な品物をぜーーんぶ買ってあげるわ!」

朝食を食べたらすぐ出発よ、と言い残して、
あわただしく道場を出て行った由乃の後姿を呆然と眺めやって。

令は、由乃が令のお腹にはちらりと目も向けなかったことに気付いた。


典型的な直情径行、猪突猛進、
おまけに形から入るタイプである由乃の青信号はどうやら、
「一家の大黒柱として令を立派に支える」ことに対して激しく点灯し、
おかげでその大元の根本的な原因である、
今後大きくなっていくであろう令のお腹の中の人物は今、
由乃の中であっさり置き去りにされてしまったようだった。


来るべき出産に備えてグッズを買い込むという案も、
単に自分がリードしていくのだという意気込みの現われであって、
大体まだせいぜい2ヶ月目なのだから、
洋服もしばらく通常通りで問題はないし、
当面すぐ必要な育児用品などあるわけがないのに。

――数日前に祥子に相談の電話を入れた際、
祐巳ちゃんに初めてこのことを知らされたときの気持ちについて聞いてみたが。

『嬉しかったわよ、もちろん。でも、親になるって実感が沸いたのは
正直言って最近になってからね。それまでは、祐巳の体の一部っていう感じで、
なかなか存在を意識することができなかったから』
――自分の体に宿った側ではないのだから、仕方ないといえば仕方ない。
ある程度はその立場に立つことが予想された祥子がそうであるならば、
由乃の場合はなおさらであることは理解できるのだが。それにしても…。


結局、由乃は拭き掃除のことなど鮮やかに置き忘れていった。
放り出された雑巾を拾い上げた令は、道場の壁にもたれてほうっとため息をつき、
無意識に昨日と同じせりふを呟いた。

「…困ったママですねえ…」



 

アドレナリン全開の由乃に引きずられるようにして、連れてこられたのは駅前の有名百貨店だった。

令の制止はほとんど役に立たず、レジにはなんとも雑多な取り合わせでマタニティ用品やら
育児用品が積み上げられていく。

向かうところ敵なしといった調子で次々に店を制圧していく
由乃の姿を追いながら、軽い疲れと脱力感を覚えて、令は、そろそろ少し休憩しよう、とフロアの一角の喫茶室に由乃を誘った。

時刻もちょうど昼前。
ランチセットを食べ終えて、食後の飲み物をすすりながら令は無意識に腰をさすった。

「令ちゃん、腰、痛いの?」

「ああ、うん。痛いというより、ちょっと重いって言うか…」

「ふうん…」

小首をかしげてしげしげと令の体を見回した由乃は、軽く身を乗り出して唐突に尋ねた。

「ねえ、お腹に子供がいるってどんな感じ?」

「え?どんなって言われると…」

突然の質問に一瞬うろたえた令は、すぐに考え込む表情になって、ゆっくりと言葉を吐き出した。

「…なんか、お腹だけじゃなくて、自分の体がすごく大事になった。
あと、いろんなことをきちんとしなきゃって思うようになった。
食べるものとか、健康に気をつけることもそうだけど、
考えたりしゃべったりすることも、どこかで影響する気がして」

「…ふうん」

納得したようなしないような曖昧な表情で頷いた由乃に。
無邪気な笑顔を向けて令が続けた。

「…あとね、由乃のことをすごく大切に思うようになったよ。
もちろん、今までだって世界中で一番大事だったけど。
そうじゃなくて、二人が繋がったっていうか、
なんか本当の意味でやっとひとつの家族になれた感じがする」


「…そろそろ混んできたから、出ようか」

わたわたと慌てた様子で立ち上がった由乃は、
これまで令が持ち歩いていたデパートの大きな紙袋をすべて掴んで
大またでレジに向かって歩き出した。――真っ赤に紅潮した顔を背けながら。


――――――――――

「なんだあれ?男がマタニティ着てどうすんだよ、なあ?」
「馬ー鹿。あれ、女の人よ。…たぶん」
「マジ!?じゃあもしかして今流行の同性結婚ってヤツ?
何年か前にどっかのお嬢様がそれやったって、ニュースに出てた」
「シッ!こっち見てる」


喫茶室を出て、もう一軒だけ見てから帰ろうか、と言って立ち寄った
マタニティウェアショップで、令は少し離れたところで交わされる会話に気づいた。


声を潜めているが、チラチラとこちらを伺いながら交わす声は
ほとんどそのまま聞こえてきている。
―――いいんだ、慣れっこだから。それより―――

同じく、その会話が聞こえていたとみえて、
セール品のワゴンをかき回していた由乃の動きが止まった。
両脇にゆっくりと下げられた拳を握り締めて。
――ああ、まずい。

男に間違われるのはいつものことだから、
と言うより、女として見られる方が稀だったりするので、
令はこの手のひそひそ話を一々気に留めたりしない。

しかし、由乃はその手の陰口を耳にすると毎回、
『―――!! 令ちゃんの!ど・こ・が!!男だっていうのよーっ!!』
などと逆上して相手に食って掛かるのだ。

由乃曰く、『令ちゃんは仮にも私のお姉さまだった、れっきとした女性なんだから!
男なんて言われて黙って引き下がれるわけないでしょう!?』とのことで。
「仮にも」は余計としても、令にとって非常に嬉しくて有難い言葉ではあるのだけど。


だけど、その度に下手すると相手に掴みかかろうとする由乃を制止し、
間が悪く相手まで掴み合いに応じて来ようとする時などは
とばっちりを食って被害を受けるのはいつも令のほうだった。

―――まずい、まずい…。
今回はどうも相手が悪い。
いかにも頭の悪そうなチンピラ風の男とその連れの女は、
由乃が抗議を始めた途端に、暴力的な反撃に出そうな様子をしていた。


「…由乃…」
半ば諦めながらも、事が始まる前に由乃を宥めるべく声を掛けようと
令が口を開いたと同時に、由乃はくるりと振り返って、
先ほどの彼らのやり取りをなにも聞かなかったかのような明るい笑顔で言った。
「…もう行こ、令ちゃん」

「よ、由乃…?」
あっけにとられて固まった令の二の腕を引いて、由乃は店の外へと促した。



 

百貨店のビルを貫く吹き抜けは、巨大なシャンデリアと
噴水を模した豪華なオブジェクトが反射する光で、それを取り巻く回廊をキラキラと飾っていた。

店を出てから、ずっと無言で令の腕を引いたまま歩を進めていた由乃は、
回廊に一定の間隔で設けられたベンチのひとつに令を座らせ、
続けて隣に勢いよく腰を下ろして、はあぁっと大きなため息をついた。

「…あー、むかつくーっ!!」

ぎりぎりを歯軋りをしながら
今ごろ気炎を上げる由乃に少し圧倒されつつ、令は由乃に言った。

「…でも、珍しいね。由乃があそこで引き下がるの、初めて見たかも」

それを聞いた由乃は、くるりとこちらに向き直って
令の瞳を正面からじっと見据えると、真剣な顔で言った。

「…当たり前じゃない。ケンカになって、
私の、大事な大事な家族が怪我でもしたらどうするのよ」


そして、片手を令の頬に添えて。
由乃はこれまで見たこともないような、穏やかな優しい笑みを浮かべた。
令が大好きな、甘えるようなにっこりとした微笑とも違う。
――強い意志を秘めた、そしてどことなく凛々しい、包み込むような笑顔。

「…由乃?」

頬に添えられた片手が降りて、
軽く令の腕に触れて、
それからお腹をかすって、令の膝に落とされた。

「…由乃」

「そうだ。…まだ自己紹介もしていなかったわ」

そう呟いて、いったん立ち上がった由乃は、すぐ前の床にしゃがみこんで。
両手をそっと伸ばして令の腰を包み込んだ。
そして、お腹に鼻がつくほどに顔を寄せて、優しい優しい声で囁いた。

「…ごきげんよう。
私の名前は、島津由乃よ。
日本列島の島に、天津甘栗の津、自由の由に、乃木大将の乃。
―――…あなたの、ママだよ」

 

 

おわり

 

 

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