Trinity − 番外編 支倉さんちの香乃ちゃん


 


「ふぇぇぇーーええん!!」


今日も支倉家に香乃の泣き声がこだまする。


「まったく、どうしてこうなのかしらっ!?」

「由乃…、もうやめなよ。香乃はまだ小さいんだからさ」

令はしりもちをついて泣きじゃくる香乃を抱き起こしながら、
傍らで腕組みして立つ由乃を振り返って呆れたようにため息をついた。


支倉家の一人娘である香乃は、4歳を迎えた今もって
身長は標準よりもだいぶ小さく言葉もあまり達者ではない。
産まれたときはやたらに元気で、さすがは支倉令が産んだ子だと
周囲(主に支倉道場を営む香乃の祖父と剣豪マニアの由乃)の期待は大きかった。

しかし、成長していくにつれ、令の乙女チックで平和主義な性格と、
由乃の小柄な体格と運動オンチを受け継いでいることがわかってきた。
無論、女の子なのだからそれで何の問題もないはずなのだが。
令の恵まれた体格と由乃の破壊的もとい積極的な性格を兼ね備えたわが子を英才教育で立派な女剣士に、
という由乃の密かな目論みは完全にあてが外れてしまったというわけだ。

それでも諦めきれない由乃は、「修行」と称して様々なプログラムを考案し日々その育成にありったけの情熱を傾けている。
おかげで最近の香乃は、庭の大きな桜の木の横枝につるしたいくつもの木片を、
木刀で滅多打ちにして叩き落すという、わけのわからない荒行を毎日やらされているのだった。

「とにかく、きょうはもうおしまい。まったく、白土三平じゃないんだから…」

「令ちゃんは黙っててよ。甘やかしてばっかりなんだから」

「大体由乃だってさ。泣き虫で、どこでもお漏らしして、六歳までオムツしてたじゃない」

「――令ちゃん!!それは言わない約束でしょっ!!」

「おむつぅ?」

「香乃も!そんな言葉覚えなくていいのっ!!」

「…ふぇえん…」

由乃の剣幕に恐れをなし、お人形のように可憐な顔立ちをゆがませて
再び泣き出した香乃を抱き上げ、

「ほら香乃、もう泣かないで。ひどいママですねえ」

あやすように香乃の背中をぽんぽんと叩きながら
令は由乃を軽くにらんで、家の中に戻ってしまった。


一人庭に取り残された由乃は、小さくため息をつきながら足元の小石を蹴った。

香乃と同じくリリアンの幼稚舎に通う祐巳さんのところの冴子ちゃんとは、
歳も半年ほどしか違わないのに、あちらは幼稚舎の先生方も舌を巻くほど賢くて
本当にしっかりしていて、泣き虫で臆病で動きのとろい香乃をいつも見事にフォローしてくれている。

そりゃ、天下の小笠原家の一粒種と比べては香乃が可哀想というものだけど。
それでも、仮にも少しは名の知れた道場主の娘であるのだから、
強くたくましく、とは言わないまでも、もう少しピシッとして欲しいと思うのは無理な注文ではない…はず。

由乃だって、香乃を可愛いと思う気持ちは令ちゃんに負けていないと思う。
ただ、幼いころから心臓に病気を抱えて、動きたくても動けなかった由乃にとっては
みそっかすであることがどれほど辛いことか骨身にしみている。
だから、やればできるということを香乃にも知って欲しくて、どうしても厳しく接してしまうのだけど。
ときどき香乃が由乃を怖がって近づこうとせず、令にしがみついているときなどは、
気持ちが伝わらない歯がゆさから涙がこぼれ落ちそうになるのだった。

「…なによ、これくらい。簡単じゃないの」

香乃が取り落としたまま転がっている木刀を拾い上げて、
やり切れない気持ちを振り切るように、枝からぶら下がった木片に打ちかかった瞬間、

「!!!!―――痛ッッたーーーい!!!」

――由乃は足が滑って、派手な音を立てて地面に倒れこんだ。



 

庭からきゃっきゃとはしゃぐ子供たちの声が聞こえてくる。
祐巳さんに連れられて、冴子ちゃんが遊びに来ているのだ。
その声を聞きながら、由乃ははあっと大きなため息を漏らした。


転んだまま、立ち上がることができずに屋内に運ばれた由乃は今、
支倉家の座敷に敷いた布団の上に寝かされている。
由乃の凶事の連絡を受けて、比較的近所に住む志摩子と乃梨子、
そして偶然乃梨子を訪れていた瞳子が見舞いに駆けつけていた。

さる有名な劇団の看板女優として活躍する瞳子は、整体の心得があるとかで、
うつぶせに寝転んだ由乃の体をあちこち確かめた後、こう言った。

「…完全に筋を違えてますわね。ちゃんと病院に行かれたほうがよろしいですわ」

「それにしても瞳子、どこで整体なんて習ったの?」

「あら。お芝居は体力勝負ですもの。時には体を張った見せ場もあるのですから、
稽古後の整体やストレッチは必須ですのよ」

乃梨子の質問に得意げに答えながら、瞳子はよいしょ、と由乃の背中に片足を乗せた。

「ちょっと痛いかもしれませんけど、違えた筋を伸ばしてみますわ。由乃さま、少し我慢してくださいませ」

そしてそのまま瞳子は片足にぐっと体重を預けた。

「ぅう―――!!いったたたたたああ!!」

由乃がたまらず大きな悲鳴をあげた、その時。


「ママーーーッ!!!」

――小さな影が居並ぶ人々の視界をさっと横切って、瞳子に躍りかかった。

「か、香乃!?」

うろたえたような令の声に、痛む背中を堪えて寝返りを打った由乃の目に映ったのは、
先ほど冴子ちゃんと遊んでいたバドミントンのラケットを握り締め、
瞳子にめちゃめちゃに切りかかる香乃の姿だった。

そこからの光景は、まさに泣き声と混乱と狼狽の博覧会さながらであった。
振り回されるラケットを避けて四つんばいで後ずさる瞳子。
瞳子を守るために飛び出したはいいが、香乃に手を出すわけにいかず両腕を広げたまま固まった乃梨子。
「香乃ちゃん、駄目よ!マリア様がみてらっしゃるわ!」と不可解なことを叫ぶ志摩子。
無理に寝返りを打ったため、再び激しく痛み出した背中に堪らず布団につっ臥した由乃。
うめき声を上げる由乃に慌てて駆け寄って自分も転んだ令。
目の前に繰り広げられる地獄絵図に、怯えたようにしゃくりあげる冴子。
この子にだけは惨い光景を見せるまいと、冴子の肩を抱きかかえ慌てて後ろを向かせようとする祐巳。

そして、由乃との間に立ちはだかって瞳子を執拗に追い詰める香乃は、
いつもの臆病さは影を潜め、まさに「鬼島津ジュニア」の称号にふさわしい修羅の姿であった。


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それから、永遠とも思える嵐のような一瞬が過ぎて、全員が放心したように呆然とその場にへたり込む中で。
小さくしゃくり上げる香乃の声だけが、静まり返ったその場に広がっていた。

「…ママを、いじめないで…」

「香乃…」

その声に、うつ伏せになって荒い息を吐いていた由乃がはっと身を起こした。
そして、膝を突いたままずるずると香乃のもとににじりよって、小さな体をぎゅっと抱きしめた。

「香乃。ごめんね。香乃は、ママを守ってくれようとしたんだね。…香乃は優しくて強い子だね」

堅く抱きあって涙する親子を、居並ぶ人々はやれやれといった嘆息とともに微笑を見交わして見守った。
そして、あたたかい空気が部屋を染めていく中。

――倒れ伏したままの瞳子の背中は、完全に筋を違えていた。

 

 

おわり

 

 

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