いつもの窓辺から眺める景色。
手に持った小箱をばかんと開けては閉める動作は、今では半ば習慣になっている。
中に収められた金属は幾度となく手にとられたせいで、擦れて鈍い光を放っていた。
それがいつ頃買ったものかは、もうとっくに思い出せなくなっていたが。
こんな一片の金属でヒトの心を繋ぎとめられるとは思っていない。
渡せるはずのない物をいつまでも弄び続けるのは自慰行為に過ぎない。
癒しを求める者を放っては置けないだけだということをわかっていながら、傷が既に癒えていることを告げないのは姑息なやり方だ。
長い長い間、自分が幸福になる権利を放棄して全てを捧げてくれたその人を、いつかは解放してあげなくてはならない。
――だけど、絶対に知られてはならない。
古い傷が、更に強い想いで塗り替えられていることを。
求めるものが癒しではなく、もうずいぶん前から愛に変わっていることを。
欲しいのは、慈愛ではなくじりじりと焼けつくような想い。
同情ではなく、心の奥底からの激情を欲しているのだということを。
――求めれば全てを与えてくれる、そういう人だからこそ。
その人自身が求めるものに出会うチャンスをもぎ取ってはいけない。
ひとりでいられない弱さを武器に、縛りつけた鎖を解き放たなければならない。
ここしばらくの様子からわかる。
その時が、間近に迫ってきていることが。
『大切なものができたら、自分から一歩引きなさい』
繰り返し、自分に言い聞かせた言葉。
でももう少し。
もう少しだけ、このままでいたい。
その人が傍にきて、いつものように声をかけてくれるまで。
――ただいま、聖 と。
「なにかお手伝いすることはありませんか?」
「…あ、ええと、昨日頼んでいた公判の資料は?」
「…午前中に御渡ししたはずですけど…」
「…え?」
うろうろと周囲に目をやると、デスクの脇机の上に確かに今回の事件のファイルが几帳面にインデックスを付けられて置かれていた。
「ご、ごめんなさい。えっ…と、じゃあ今はもういいわ。
戻って自分の仕事を片付けてちょうだい」
まずい。頭の中があのことで完全に占領されていて、無理に追い出そうとすると今度は空いた隙間に何一つデータが入ってこないまま、気がつくと時間が経っている。このままでは、なにか重大なミスをおかしかねない。
「…手が空いたから、事務局に顔を出して過去の判例の資料を洗ってくるわね」
「あ、はい…。お気をつけて」
今日は戻らないから、と言い残して、不思議そうに見送る女性事務官の視線を背中に痛いほど感じながら蓉子は終業間近の役所を後にした。
検察官、通常「検事」と総称されるこの官職は、圧倒的な人員不足が叫ばれるように、その多忙さは苛烈を極める。複雑な法的手続きと煩わしい段取り、そして勉強勉強勉強…、新しい知識を吸収するために息つく暇もない毎日。それが自らの心身に多大な負荷を与えていることを知りながら、蓉子は今の生活から深い充足感を得ていた。
超人的な手際のよさと生来の勤勉さで着実に消化する日々は、蓉子の知識に餓える明晰な頭脳に鮮烈な刺激を与えてくれる。忙しい日々は大歓迎だ。頭の中の雑念に思いを巡らす余裕など、なくなればいい。そうすれば、一日の終わりには暖かい温もりが身体を包んでくれるから。
――たとえそれが、抜け殻の温もりであっても。
一ヶ月ほど前の午後、蓉子は駅前のファッションビルのパウダールームの便座のフタの上に力なく腰掛けていた。片手に握った判定器の小さな窓には、青い線がくっきりと表示されていた。
普段は判を押したようにきっちりと訪れる月の障りがやってこなかった。
きてない、と気付いた瞬間、それが示している意味をすとんと理解した。
数日の遅れはよくあること。しかしなんとなく予感があった。
それでも人並み外れて慎重な蓉子は、数週間を待ち、薬局で購入した判定器で確認してから、婦人科の門を叩いた。
そして。
初めの予感、判定器、そして診察の全てが、はっきりとした一つの兆候を示していた。
「――ただいま」
聖と暮らすマンションの出窓の外には、大きな桜の樹が枝を差し伸べていた。
「――聖」
キッチンを回って室内を覗くと、リビングの出窓の前に置かれたソファの背もたれに肘をついて、聖は外の景色をぼんやりと眺めていた。
そうやって、心をどこか遠くに彷徨わせている姿は珍しいことではない。
ただ、それは蓉子にとって心臓を捕まれるように切ない光景で。
――きっと。
そんなときの聖は、遠い過去に失った愛しい人の面影を追って蓉子の知らないはるか彼方の空を漂っているに違いないのだから。
所在なさげに投げ出された手には、ベルベットの小箱が握られていた。
時折見かけるそれは、あの人との思い出の品だろうか。
以前冗談まじりの口調で尋ねたとき、ちょっとね、と軽くかわした微笑が蘇る。
焦げつくような嫉妬心に慌ててふたをして、意識の下にそっと隠した。
「――…子?ねえ、蓉子?」
キッチンの入り口に佇んだ蓉子は、聖の不審げな問いかけではっと我に返った。
いつの間にか聖は、蓉子のすぐ傍に立っていて、蓉子の顔の前で片手をひらひらと振り動かしていた。
「…聖」
「おかえり。蓉子。ぼーっとしてたね。仕事、大変だったの」
「え、ええ…。大丈夫よ。食事、まだよね。何か作りましょうか」
慌てて笑顔を作り、普段通りに聞こえるといいと願いながら返事を返した。
「…ううん。あのねぇ、ビーフストロガノフ作っておいたよ。蓉子、好きでしょう」
褒めてと言わんばかりに得意げな表情を浮かべた聖。
咄嗟にしがみつきたい衝動を抑えて、その肩にそっと額をつけて呟いた。
「…好きよ、大好き」
「え?よ、蓉子…?」
普段はほとんど耳にすることのない蓉子の大胆な告白に、一瞬にして身体を硬直させて問い返した聖に。
「…ビーフストロガノフが、よ」
すっと身体を離して、拍子抜けした表情の聖に微笑みかけると、蓉子は着替えのためにキッチンを後にした。
聖の作ったビーフストロガノフは格別の出来だった。
食事を終えて、軽くシャワーを浴びた蓉子はパソコンを開いて、届いていたメールにざっと目を通してからベッドルームへと向かった。
ベッドルームの照明は点けられていなかった。窓から入る月の光だけが部屋に薄暗い陰を落とす中、聖は腰より少し高い窓の桟にもたれて立ち、少しのけぞるような姿勢で月を仰ぎ見ていた。
青白い月光に照らされて、ただでさえ色白の聖の横顔は、微かな戦慄さえ感じさせるほどに彫刻的な美しさをたたえている。
しかしその美しさは、見るものに感動を与えると同時に、足を踏み入れることを許されない絶対的な孤独を感じさせた。
息を呑んで立ち尽くした蓉子に気づいた聖が、身体を起こして蓉子につと両手を差し伸べた。
「蓉子、…来て」
先ほどと打って変って、柔らかな微笑を浮かべたエキゾチックな瞳。
引き寄せられるようにその両腕に倒れこんだ蓉子の身体を、聖はしっかりと抱きとめて、髪に頬擦りするように頭を寄せてから、そっと唇を重ねた。
永い永いキスの途中で、コクンと動いた蓉子の喉。
それをきっかけに、重ねていた聖の唇が肌をなぞり、そのまま首筋から胸元へとゆっくり降りてゆく。
じわりと痺れてゆく頭の芯。
――その刹那。蓉子の体の奥深いところから突如として警鐘が響いた。
「――…ダメ、聖…」
両手で聖の胸を圧して体を引き離しながら、蓉子は囁くような小声で言った。
背中に回したままの両腕に少しだけ力を残して、聖が焦れた声で尋ねた。
「…どうして。だってもうずいぶん…」
「…ごめんなさい。でも、ダメなの」
ごめんなさい、ともう一度繰り返して、するりと聖の腕から抜け出す。
これほどはっきりと拒絶の意思を示したのは、初めてのことだった。
ふいと背を向けてベッドにもぐりこんだ聖に、蓉子は小さく声をかけた。
「――聖。明日は、帰れないから」
数日前の診察で入れた予約。
――手術はもう、明日の午前中に迫っていた。
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いつもの通りの時間に家を出て、マンション群を縫って駅に向かう舗装されたプロムナードを少し早足で歩きながら、蓉子は霞がかかったようにぼうっとしている寝不足の頭をゆるゆると振った。
最寄の駅について、鉄骨のむき出しになった天井からぶら下げられた案内表示を横目で確認しながら、地下鉄の構内に足を踏み入れる。
朝の雑踏の中で、自分のローヒールの靴音だけが頭の中にうつろに響いた。
…コツコツ コツコツ
――次の一歩。次の一歩、のことだけ。
…コツコツ コツコツ
――今は何も、考えたくない。
―――と、俯いて舗装のひび割れをたどるように歩を進めていた蓉子の鼻先を、むっとすえた匂いが差した。
瞬間、ぐっと喉に苦いかたまりがこみ上げる。
目を上げると、すぐ脇の壁に年老いた浮浪者がうずくまっていた。
喉に上がってきた体液をぐうっとこらえて、堪らず少し滲んだ涙を指先でぬぐいながら、蓉子は急いでその場を離れた。
――いくら考えまいとしていても、身体は確実に変化を続けている。
そのことを意識して、蓉子は胸につかえた重いしこりを押し潰すように深く息を吸った。
地下鉄は乗り込んだ駅の2,3駅先から地上に出た。
下りの路線は、朝のこの時間でも座席を確保するのにさほど困難ではなかった。
昨日の夜あれから。
気まずい雰囲気の中でベッドにもぐりこんだ二人は、背を向けていつまでも互いの呼吸に耳を澄ましていた。長いことお預けを食わされて聖が苛立っているのが、薄いパジャマとわずかな空間を隔てていても肌にぴりぴりと刺さるように伝わってきた。
(愛している)
(ずっと傍にいたい)
(いつもあなただけを見ているのに)
身体を合わせながらいつも蓉子が胸のうちで叫ぶ言葉のどれひとつとして、聖の口から聞かされたことはない。好きだよ、とか、蓉子が欲しい、といった言葉は時折発せられることはあっても。それらは蓉子を求め、必要としていることを示してはいても、愛情を表すものではないことを蓉子は知っていた。
聖に必要とされること。それが聖の傍に居続けるために、蓉子が自分に課したノルマだった。聖が求めて、蓉子が与える。それが当たり前の関係だから。必要とされているのだと、傍にいても良いのだという自己の存在意義を確認するために、それは不可欠な役割だったから。
愛情ではなく、有用さで相手を縛りつける醜さを蓉子は十分に自覚していた。
だけど。いくら求めても彼女の心を手に入れることがかなわない以上、聖の傍にいたいと胸がちぎれるほどに切望する自分に他に残された道があるだろうか。
――でも、だからこそ。
蓉子の身に起こったこの事実に気づかれてはならない。
気づけばきっと、聖は、私に背を向けるだろう。
それは、いつ羽ばたいていくとも知れない彼女の羽をもいで地上に止めようとする行為だから。
がたん、という揺れとともに、蓉子は現実に引き戻された。
慌てて車窓越しに駅名を確認すると、下車する予定の駅の手前であることがわかった。
目的地の駅のホームに電車が滑り込む。
蓉子は、足元に置いたバッグを手にとった。
バッグには、一泊の入院に必要な着替えと手回りの物が詰め込まれている。
揺れとともに電車が停車し、ドアが開いてホームの雑踏が耳に響いた。
開いたドアからサッと風が吹き込んで、もたれていた背中を起こす。
そして。
ドアがシューッと音を立てて閉まった。
――蓉子は再び、頭を車窓にもたれてぎゅっと目を閉じた。
終着駅は、こぼれるような木々の緑で囲まれた、屋根と金網と柱だけの簡素なつくりだった。蓉子は、駅前の人ごみを避けて、停車直前に車窓から見えた小川のほうを目指して駅舎の裏手に回りこんだ。
小川、というより旧くは用水路として浚渫されたその流れは、1メートルほどの高さしかないガードレールを隔てて、急角度で落ち込んだ傾斜の下を、こぽこぽと音を立てて続いている。
ガードレールはところどころで途切れ、コンクリートの無骨な橋が、流れの向こう側の岸に建てられた民家の入り口をつないでいた。
蓉子は、ガードレールに沿ってあてどなく歩を進めながら、ぼんやりと遠い記憶の中をさ迷い始めた。
もう何年たつのだろう。
月日がたっても脳裏に鮮やかに蘇るあのつらい雪の日の夜以来、蓉子はなにくれとなく聖の面倒をみるようになった。いや、それが許されるようになった、というべきだろうか。初めて出会った中等部の頃から、気づくと聖の姿を目で追っていて。高等部に入って、聖の運命を変えた出会いと別れを目の当たりにして疼くような痛みを胸のうちに感じ、ああこれが恋というものなのかと気づいた。
彼女に焦がれる気持ちが自分の中で高まるにつれて、ますます身を入れて聖の面倒を看るようになった。
たとえ私と同じ気持ちでなくても、聖が私なしではいられないほど、必要とされる存在でありたい。
愛し合う人とは別れが訪れるかもしれないが、親友という関係は、注意深く距離を保ってさえいれば。いつまでも途切れることなく聖の傍にいることを許されるだろうから。
ともすれば溢れ出してしまいそうな気持ちを押し隠して、お姉さまに「高級風呂敷」と評された得意の世話係を続けることにもすっかり慣れたように思われた時。
「――蓉子、一人にしないで」
思いつめたような表情は高等部時代と変わらず、いや、あの頃よりもさらに、不用意に触れれば壊れてしまいそうな脆さを蓉子の前にありのままさらけだして、聖はおずおずと懇願するように蓉子に触れた。
躊躇う間もなく、幼子を抱くように抱きしめたその時に。
――私は終わりの見えない迷宮に足を踏み入れてしまったのだ。
ガードレールは、唐突に途切れていた。
緩やかに傾斜しながら流れていた道しるべの小川は急に角度を変えて、土手の横腹の雑草に覆われた暗い穴に入込んでいた。
それまで足もとを見つめて歩いていた蓉子が、行き止まりに立ち止まって目を上げると、そこには、鉄錆びた貧相な門の奥に隠されるように、古びたチャペルが静かにただずんでいた。
門の金網の隙間からチャペルの十字架塔を呆然と眺めるうちに、蓉子の胸のうちに高等部時代の記憶が静かに頭をもたげた。
お御堂と呼ばれていたリリアンの礼拝堂。
在学中はさほどの感慨ももたらさなかったあの場所が、今はひどく懐かしかった。
門の横手の通用口らしきくぐり戸から教会の内部へと足を踏み入れる。
リリアンで過ごした記憶から、カトリックの教会が来訪者を拒まないことを、蓉子は知っていた。
どれほど歩いてきたのか、日はすでに天頂をさしていた。
侵入した門は裏手に位置する通用門だったらしく、雑木に囲まれた小道を少し進むと、目の前には礼拝堂とは別に鉄筋造りの小さな公民館ほどの建物が姿を現した。
懐かしい薔薇の館のビスケット扉を思わせる、幾何学的な彫りを施された礼拝堂の扉を引きあけると、リリアンの礼拝堂のような造り付けのベンチではなく、簡素な木製の椅子がいくつも整然と並んでいた。二階分の高さを持つ建物の天井に近い部分には、ゴシック様の模様をかたどったステンドグラスがはり巡らされている。そして、堂内を満たす静謐な雰囲気は、喧騒や暴虐を一切拒み、ここは祈りをささげる場所なのだということを強く感じさせた。
堂内はひっそりと静まり返っていた。
どこからか、子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。
おそらく、幼稚園が併設されているのだろう。
裏から見たときはわからなかったが、案外規模の大きい教会なのかもしれない。
不明瞭な子供特有の甲高い声を聞くとはなしに聞きながら、
蓉子は二ヶ月ほど前に一児をもうけたばかりの愛する妹と孫を思い浮かべていた。
連絡を受けてすぐに見舞いに駆けつけた蓉子に、祥子は笑顔で駆け寄って飛びつくように抱きついた。高等部時代は容易に内面をさらけ出すことのなかったこの妹の、そのようなはしゃぎ方が蓉子を内心ひどく驚かせたが、祐巳ちゃんと出会ってからの年月と、今しがた彼女に訪れた大きな感動を考えると、あるいはごく当然の行動であったかもしれない。
興奮冷めやらぬまま、祥子は蓉子に弾んだ声で告げた。
「私、この子をリリアンに入学させようと思っていますの。
この子にも、お姉さまのようなスールに恵まれることを心から願っておりますのよ」
数時間前の大仕事にまだ疲れを滲ませながら、祐巳ちゃんは弱く微笑んだ。
「それとも、祥子さまのようなお姉さまに」
そっと祐巳ちゃんの額に落ちた後れ毛をかき上げながら、祥子は優しくからかうような口調で続けた。
「ええ。そして祐巳のような妹にもね」
その二人の間に濃密に交される愛情の細やかさに、思わず顔を綻ばせたものだった。
正面の講壇の背後のくぼみに架けられた十字架に相対して、蓉子はぼんやりと思った。
――十字架にかけられたイエズス様は苦しかっただろうか。
――たとえその本性が、時間も空間をも超越する至高の存在であっても、この世から葬り去られるのは悲しかっただろうか。
「…あの…」
ステンドグラスを透過して降り注ぐ陽光を音に変換したらこうもあろうかという、限りなく柔らかくそして穏やかなアルトの声が、蓉子の頭上から遠慮がちに響いた。
「…ごきげんよう。当教会になにか御用でしょうか。
お祈りでしたらもちろん、お好きなだけなさって頂いて構わないのですけど」
ぐるりと見上げると、入り口側の二階部分の高さに設けられた、おそらく鐘楼への階段の途中にあたる粗末なバルコニーから、小柄な人影が蓉子を見下ろしていた。
その容貌は、頭上のステンドグラスから指す日差しが創り出した陰でまったく判別がつかないが、緩やかな衣服に覆われたシルエットは、彼女がこの教会のシスターであることを示していた。
掃除の途中であろうか、よくは見えないがその衣装は、普通シスターが纏う、髪の毛を一本残らず隠した正式の頭巾とは違って、緩く被ったベールの端が顔の輪郭を覆っていた。
「…告悔を、させていただきたいと…」
とっさに発せられた自分の言葉に、蓉子は愕然とした。
告悔。カトリックで秘蹟と呼ばれる、罪を告白し許しを得る様式のひとつ。
カトリックの学校にたかだか6年通っただけで、キリスト教徒でさえない自分が、告悔をしたいだなんて。
「…司祭様は、外出されておりますの。本日は夕方までお戻りになりませんわ。
折角お越し頂いたのに誠にお手数ですが、もう一度機会を改めてお越し下さいませ。
日曜の朝のミサの後は、告悔の時間になっておりますから、よろしければその時にでも。
皆様お許しと祝福を得てとても救われた、と仰いましてよ」
穏やかな調子を崩さず、心から申し訳なさそうに詫びたそのシスターは、言いながら丁寧に頭を下げた。纏っただけのベールからさらりとこぼれ落ちた髪は、シスターという存在には不似合いなほど長く滑らかな陰を落としていた。
「…わかりました。ありがとうございます」
思いもかけない自分の言葉に動揺していた蓉子が、その返答に少しほっとして入り口に向かって歩き出したとき。
「お待ちになって」
わずかにうわずった声を上げて、シスターが蓉子を呼び止めた。
「…差し出がましい口をお許し下さいませ。
もしよろしければ、お力になれることはありませんか…?
無力な私でも、お話くらいは聞いて差し上げられると思うのですが…」
一瞬、戸惑ったように蓉子は立ち止まった。
シスターの声には、好奇心ではなく衷心からの真心と気遣いが感じられた。
普段なら容易に打ち明け話などする性質ではない蓉子だったが、
不思議と話してみようか、という気持ちが胸に起こった。
ややあって顔を上げると、蓉子は窓辺のシスターに返事を返した。
「…ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「では、正門の左手からつながる小道の先に、物置小屋がありますの。
その脇手のベンチでお待ちくださいませんか。
…告悔室では、一介のシスターに過ぎない私がお話を伺うことはできませんから」
「…わかりました」
初めにかけられた「ごきげんよう」の言葉が、蓉子の無意識下に広がる愛しき日々への限りない懐かしさと安らぎを呼び起こしたことに、蓉子はしばらく経ってから気がついた。
物置小屋は、シスターが言ったとおりの場所にあった。
わずか2メートル四方ほどの小さな木造の小屋の前には、軒を接するように藤棚が設置されていて、その藤棚の片端を支える衝立は、他の辺と異なり、蓉子の膝から頭二つ分ほど高い位置までの木製の木塀が視界を隔てていた。
ベンチは、通ってきた小道に背を向けるように、藤棚の木塀に沿って設置されていた。
チチチ…という鳥の声と、藤の葉を揺らすささやかな風が創り出す、さらさらと流れるような音に耳を傾けながら、蓉子は、やはり見知らぬ人に話を聞いて貰うという常にない自分の行動に多少の後悔を感じ始めた頃。ふっという蓉子の吐息に返事を返すように、先程のシスターの柔らかい声が耳に届いた。
「お待たせ致しました。お話を伺いますわ」
「…えっ…。あの、どちらに…」
姿を探してきょろきょろと辺りを見回す蓉子に、穏やかな声でシスターは答えた。
「木塀の反対側におりますの。…顔が見えないほうが、お話しやすいのでは、と思いましたものですから…」
気付くと、木塀の下からは機能的なズックの靴に覆われた華奢な脚が二本、蓉子のすぐ真裏に当たる場所にその端を覗かせていた。
「…お気遣い、感謝いたします」
ベンチに腰をかけて、木塀に背をもたれさせるように藤棚を見上げた蓉子は、漏れ落ちる陽光にまぶたを洗いながら、これまで自分の身に起こったことの経緯をぽつりぽつりと話し始めた。
シスターは、基本的には沈黙したまま、時には意図的に抑揚を抑えた簡便な相槌をもって蓉子の話に耳を傾けている。ごく抽象的な表現に留めようとした初めの努力を忘れ去って、だんだんと微に入り細に入り状況を説明しながら、自らの心の内面を吐露していくうちに、蓉子は目の前が徐々に波打つ光の膜で覆われていくのを感じた。
ざんっと草むらを凪いだ風が、涙に濡れた蓉子の頬を撫で、髪をなぶって通り過ぎてゆく。
頭上の藤つるの隙間を縫って、暖かな陽光がモザイクとなって蓉子の身体に陰陽の模様を描き出していた。
――空はこんなに青く、清々しい空気に包まれていて。
――――世界はこんなに広く、きらきらと眩しい生命に満ち溢れていて。
それなのに私は、自らの身体に宿ったかけがえのない命を、人知れず闇に葬り去ろうとしている。
自分の醜い執着のために、生命が生命であるがゆえに持つ、光を求めて解き放たれようとする切なる願いを閉ざして、外の世界に通じるたった一本のか細い光脈をこの手で断ち切ろうとしたのだ。
――私はなんと罪深く、欲深い女なんだろう。
いつしか語るべき言葉を失くして、くぐもった嗚咽を漏らす蓉子に。
木塀を隔てたシスターは、流れる刻を共有するかのように、ただ沈黙を守ってただずんていた。
十分な間を置いて、囁くように穏やかな音律を持つ声が蓉子の耳に響いた。
「…貴女はもう、ご自分がどうしたいのか、どうすべきなのかをご存知だと思います。
主は、他の人を真摯に想う人を裁いたりは決してなさいませんわ。
人と人が想いあうことこそが、主が示される最大の福音を導くものなのですから」
その言葉にはっと目を上げた蓉子の姿が見えたように、シスターは静かに言葉をつないだ。
「…そして、主がお引き合わせくださった一人の友人として、意見を申し述べさせて頂きますわ」
木塀の向こうで、これまで半身をもたれて立っていたシスターが、そっと向きを変えてこちらに正対する気配が伝わった。
「…生涯ただひとり、と想った方の手を、決して、手放してはなりません。
人の望みは、その相手と向かい合っているときでさえ、時に誤った虚像を見せることがあります。
周囲の思惑や時勢がもたらす困苦は、互いの想いを強めるものであっても、
障害となるものではありません。
――過ちを侵すことを怖れて、自分が進むべき道を見誤っては、
本当に大切なものまで失ってしまうのですから…」
最後の言葉は、シスター自身の独白のように、蓉子の耳に心もとなく届いて、折りしも吹き過ぎた微風に乗って大気に溶けていった。
カトリックの教えでは到底許されざる大罪を、ひとつは犯し、もうひとつをすんでのところで実行しかけた蓉子に掛けられた救いの言葉。
見ず知らずの相手にこれほどまでに真摯に相対し、心のうち深くに仕舞っていたであろう彼女自身の想いを開け放ってくれたシスターの姿を一目見たいと、蓉子は木塀の裏に回りこもうとベンチから立ち上がった。
――その瞬間。
「――来てはいけません!」
小さく鋭く発せられた制止の言葉に、びくりと身を竦ませて足を止めた蓉子に。
すぐに穏やかな口調に立ち返ってシスターは静かに語りかけた。
「…このまま、お別れしましょう。
主は常に、貴女の傍であなたを見守ってくださっています。
――そして、私も、これからはいつも貴女を想って、祈りを捧げることにいたしますから」
「…わかりました。ありがとうございました。
…本当に、ほんとうにありがとう…」
涙に濡れた目を上げて、蓉子は木塀の下から覗くシスターの脚に向かい合って立った。
そして、ザラザラしたささくれの浮いた木塀の表面に額を押し付けて、深い感謝を込めて、静かに祈りを捧げた。
木塀の裏では、シスターが同じように身をもたせて祈る気配が伝わってきた。
板一枚を隔てて、二人はそのとき、木塀から伝わるはずもない互いのぬくもりを確かに感じていた。
肌を通り抜ける風の冷たさで、永い時間の経過に気づいた蓉子はゆっくりと体を起こした。
「…私は、もう行きます。…ごきげんよう」
「――ごきげんよう」
最後にもう一度、深々と頭を下げて、蓉子はその場を去った。
――今とは違う時、今とは違う場所で。
もしかしたら、逢っていたのかもしれない彼女の名前を胸のうちで呟きながら。
帰宅したのは午後も遅い時間だった。
一呼吸置いて、リビングのドアを押し開ける。
「…聖」
いつもと同じ窓辺のソファにもたれていた聖が振り返る。
手には、あの小箱が握られていた。
「…蓉子」
振り返った聖の瞳は、限りなく切なくて。
「…今日は、帰らないんじゃなかったの」
その後に続くわずかな沈黙のうちに、昼間のシスターが蓉子の心をよぎった。
(――私に、力をください。)
(――与えるだけではなく、求めるための力を。)
蓉子は目を上げて、ゆっくりと口を開いた。
「聖。――聞いて欲しい話があるの」
おわり
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