Trinity − 番外編 佐藤さんちのあかりちゃん






 歓喜に高鳴る胸。
 全身を突き上げる言葉にならない快哉。

 言葉にならない感動にじわじわと滲んできた目元に力を込めながら、疲れきって、しかし満足そうに微笑んでいる愛しい人にありったけの愛情と感謝と労いを込めた微笑を返した。
 それから、両腕にしっかりと抱きしめられた真っ白なタオルにそっと手を添え、息を殺して生まれたばかりの我が子を覗き込んだ、その瞬間。


「…どぉして、こーなるかなぁ…」


 元白薔薇さまこと、佐藤聖はがっくりと肩を落としてうなだれた。


==================================


「ごきげんよう。お邪魔するわよ」

 玄関の扉が開く音がして挨拶が聞こえると、そのままこちらの返事を待たずにすたすたと廊下を歩いて江利子がひょいと顔を出した。

「何。まだ祥子たちは来てないの」

「何、とはご挨拶ね。久しぶりに会ったっていうのに」

 相変わらずの親友の面倒くさそうな口ぶりに苦笑しながら、蓉子は傍らのクッションを勧めた。

「あかりちゃんは?」

「むこうの部屋で聖が寝かしつけているわ。
 お昼寝の時間なのにむずがってなかなか寝ないのよ」

 行って見てみたら?と促すと素直に、そお?じゃ…と立ち上がってリビングを出る江利子の後姿を再び苦笑と共に見送った蓉子は、壁の時計をちらりと眺めやってからのんびりとお茶の支度を始めた。


 今日は、聖と蓉子が住むマンションに、祥子と祐巳が訪れるという約束になっている。
 今では押しも押されぬ小笠原グループの重役として、内外に名を馳せている祥子は、出産を期に仕事をやめて専業主婦となっている祐巳と、一人娘の冴子を伴って、先ごろ仕事と勉強をかねた一年間のフランス行きから帰国したばかりであった。
 あかりが生まれる直前からフランスに旅立った二人はまだ、あかりとの対面を果していない。だから、「帰国したらすぐ会いに行きます」という約束に違わず、帰国して早々に訪ねたいとの電話を受けた蓉子は、嬉しさのあまり小躍りして聖を呆れさせたものだった。

 祐巳と祥子が来ると聞きつけた江利子は、さも当然のように、なら私も行くわ、と勝手に訪問を決めてしまった。面白いことを見逃すはずのない江利子のことだから、予想通りの成り行きではあるのだが、双子を夫の山辺氏に預けてはやばやとマンションに到着した江利子には「スッポンの江利子」の二つ名に恥じぬ意気込みがありありと感じられた。

――――――――――――――――――――――――――


「ぅえぇんん…」

 泣き止まない我が子を前に、宥めたり懇願したりとあらゆる手を使い果たした聖は、カーペットの上に敷いたベビー布団の脇に座り込み、深くため息をついた。
 10ヶ月になる娘のあかりは、癇が強いのか一度泣き出したら疲れ果てて泣き寝入りするまでぐずり続けることがある。
 聖よりも比較的あやし方の上手い蓉子の方は、そのうち泣き止むわ、と鷹揚に構えていることが多いけれど、聖はこうなるといつもこちらが泣きたいような無力さを覚えて、あわあわと立ち往生してしまうのが常であった。

「苦戦してるじゃない、白薔薇さま」

 横手からすっと差し出された両手が、よいしょ、とあかりを抱き上げた。
目を上げると、かつて同じ薔薇さまとして並び咲いた旧友の、腹立たしいほど余裕の笑み。聖があっけにとられている間に、江利子はぐずるあかりの背中を軽く叩きながら静かに揺さぶる。と、あかりはくすん、と小さな鼻声を残して、すぐにすうすうと寝息を立て始めた。

「眠たくってぐずってるんだから、邪魔しないようにあやさないと」

「…どうも、ありがとう」

 一応口でお礼を言いながら、聖はあかりを抱いて立つ江利子の姿に妙な苛立ちを感じていた。
 そりゃ、双子を育てた実績から言えば、江利子のあやし方が聖より先んじているのは当然であって、江利子に、あっという間にあかりを宥められてしまったのはもちろん悔しいのだが。


 …いや、問題なのはそんなことではなくて…


 ――ぴんぽーん――


 そのとき、玄関のチャイムが、祥子と祐巳の到着を知らせた。




「お姉さま。聖さま。江利子さま。ご無沙汰しておりました。
皆様、お元気そうでなによりですわ」

 蓉子の案内で姿を表した祥子は、一応高級の部類に入るこのマンションのリビングが色褪せて見えるほど、洗練された美をあたりにこれでもかと振り撒いていた。

「ごきげんよう、お姉さま方。お目にかかれて嬉しいです」

 祥子の隣りでぴょこんと頭を下げた祐巳は、単体で見れば十分に愛らしい女性なのだが、祥子と二人並ぶとさながら温室育ちの大輪の薔薇と風に揺れる野菊といった、絶妙な対比を醸し出している。にもかかわらず二人がまとう空気は不思議にも、それを見る者すべてに太陽と月のように分かち難い絆を感じさせた。

「祥子も祐巳ちゃんも、大変だったわね。フランスはどうだった?冴子ちゃんは元気?これからはもう日本で暮らせるのでしょう?」

 久しぶりに妹と孫に会えた喜びを隠そうともせず、蓉子は矢継ぎ早に質問を繰り出した。

「ええ、祐巳も私も、とても良い刺激を受けましたわ。
冴子も片言のフランス語を覚えて、あちらの方々と祐巳よりも上手に話をするようになりましてよ。
まあ、子供のことですから、すぐに忘れてしまうでしょうけど」

 そうよね、と傍らの祐巳を見遣った祥子に、ええ、と笑みを返して祐巳が後を継いだ。

「冴子ちゃんは今、私の実家で預かって貰ってるんです。
…というより、本当は、こちらに連れてこようと思ったのですが、私の父と母が預かるって聞かなくて。
小笠原のご両親も福沢の家にいらっしゃっていて、
帰国してから祥子さまと私は、一度も冴子ちゃんを抱っこしていないんですよ」

 たはは…、と困り笑いを浮かべた祐巳の様子からすると、両家の祖父母の冴子争奪戦は察するに余りある凄まじさのようだ。

「これからは日本を長く離れることはありませんし、
冴子も来年からリリアンの幼稚舎に入園することが決っておりますから。
お姉さま方も、今後は近しくお付き合い下さいませ」

 と、そこまで言ってから、ふと首をかしげて祥子が蓉子に尋ねた。

「…ところで、あかりちゃんをお見せ頂けませんの?」

「ああ、さっきやっと寝かしつけたところなのよ。
一度眠ったら今度はなかなか起きないから、よかったら見てやって欲しいわ」


 蓉子のその言葉に促されて、ぞろぞろと一行は隣の部屋に移動した。
 祥子と祐巳が足音を忍ばせてベビー布団の両脇にしゃがみ込み、同時に寝顔を覗き込んだ瞬間。



「…え、えーと。こ、これは…。す、すっごく可愛いですね…!!」


 しどろもどろの賞賛をやっと絞り出した祐巳と、言葉に詰まって絶句する祥子に、悄然とした聖が声を掛けた。

「いや…、わかってる。それ以上言わなくて良いから…」


 そう。
 全員が眺め下ろす中、すうすうと可愛らしい寝息を立てるあかりの長い長い睫毛に縁取られたエキゾチックな目元と、蓉子に生き写しの優美な弧を描く眉の上には。

 ――燦然と光り輝く立派なおでこが鎮座ましましていたのである。





 再びリビングに移動した一行は、やや滑稽とも重苦しいともつきかねる微妙な雰囲気の中で、蓉子が淹れた紅茶を黙って啜っていた。

「…と、とても可愛らしいお子さまでしたわよ。
聖さまに似て色白で、お姉さまに似て理知的で。
お二人の良いところを併せたようなお子さまですわ」

「祥子…。そんなことわかってる。わかってるけど…」

 確かに、あかりの顔立ちは、紛うことなく聖にも蓉子にも似たところを兼ね備えている。しかし、あまりにもインパクトの強いお凸が真っ先に目に飛び込んでくるため、見るものは皆、他の印象を忘れて「立派なおでこねぇ」と感嘆の声を上げ、そのたびに聖を嘆かせるのだという。


「…ねえ蓉子、まさかとは思うけど、江利子と…」

 じと目で蓉子と江利子を見比べながら、聖が唸った。


「!!…聖ッ!冗談にしてもあんまりよ!」


「あら。蓉子、隠すことないじゃない」


 楽しそうに応える江利子をぎっと睨みつけた蓉子は、間に置かれたコーヒーテーブルをばんっと叩いて身を乗出し、低い声で言った。

「…江利子。怒るわよ」


 ……そして、無言。
 再びその場に、皆が紅茶を啜る音だけが空しく響いた。



 と、重苦しい沈黙を破るように、なんの前触れもなく甲高い笑い声が周囲にこだました。

「きゃああうー♪」

 ソファの陰から飛び出したのは、いつの間にか起き出したあかりの小さな姿。
 大きな目と口をいっぱいに開けて歓喜の雄叫びを挙げ、両手を振り回しながら、あかりは祐巳に向かってまっしぐらに歩み寄ってきた。
 つい先日伝い歩きを覚えたばかりのはずが、覚束ない足取りではあるが確かに両足を交互に出し、自分の足で歩いている。


 多少危ないことでも興味を持てばやらせてみる、という蓉子の教育方針によって、あまり手掛かりに適さない不安定な置物や水槽なども制止されることなく果敢に手を伸ばすから、小さなあかりの身体は早くも百戦錬磨のつわもののようにあざがいくつもできていたが、その代わりに成長のスピードは目覚ましかった。
 しかし、いくらなんでも、これは…。


 その場にいる全員が目を丸くしてただ見守る中、ようやく祐巳のもとにたどり着いたあかりは、ひときわ大きい歓声を上げ、顔中に笑みを浮かべて祐巳の胸元に飛び込んだ。


 ――そして、小さな腕をいっぱいに広げて祐巳の首に回し、祐巳の頬に、音も高々とキスをした。


 ……その場に三たび流れた、重苦しい沈黙の後。


「…間違いなく、聖さまのお子さまですわね…」


 引きつった頬をぴくぴくさせながら明らかに無理をした笑顔を浮かべ、祥子がようやく言葉を発した。
 祐巳は、あかりに乳児とは思えない力で抱きつかれて目を白黒させている。

 それ見たことかと白い目で聖を流し見る蓉子と、我関せずとばかりにフランス土産を広げる江利子に囲まれて。

(――お助けください…――)

 ――聖は心の中で十字を切って、マリアさまに助けを求めたのだった。




おわり




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送