プロポーズ





「あなたが好きなの。あなたが欲しいの。あなたしか見えないの。だから、結婚してくれないかしら」

 何年もこの日を夢見て、何を言えばいいのか考えてきたのに、こんな陳腐なセリフしか思いつかない。でもそれは私にとっての真実だったし、彼女だって、それは分かってくれている。分かってくれている、だって、心の中でちゃんと繋がってるんだから。そう、その時の私は信じていた。
 だから、彼女の歓喜の表情、大きく見開かれた目、口元にこぼれた笑みを見て、彼女の唇から出てくる言葉は分かっていた。いや、分かっていたつもりだった。

「ごめんなさい。お断りします」




「泣いてるの?悲しい夢を見たの?」
 優しい声がする。そう、優しい声だ。私がそれにすがりつきたくなる声だ。
「ええ、悲しい夢よ、私が全てを失ってしまった夢」
 さらりと。指が優しく私の髪の上を流れていく。そして、頬に触れて、流れた涙を後をぬぐい去ってくれる。
「忘れなさい」
「忘れられないわ、絶対」
「どうして?」
「だって、あの人は私の全てだったんですもの」
 目を開ける。彼女はカーテンから漏れるぼぅとした朝の光を背に、優しく微笑んでいる。まるで聖母(マドンナ)のように。
「ダメよ、そういう考えは。あなたはあなたなの。なにかにすがりつくのはいけないわ」
「忘れられないの」
 ぷくりと瞼の裏に、涙が溢れてくる。彼女は黙って、胸の中に抱き寄せてくれる。
「泣かないで」
「忘れられないの」
「泣かないで」
 すっ、と閉じた瞼に、唇が寄せられて、ちろりと涙がなめとられる。また新しい涙が流れ落ちる。
「あなたの泣き顔は見たくないの」
「だったら、止めて見せてよ」
「私にできるのかしら」
「ええ、あなたにしかできないの」
 縋る。彼女の肩をつかみ、その柔らかい身体を抱き寄せる。思いの丈を込めて見つめながら、彼女にこうささやいた。
「愛してるわ、祐巳。結婚して。そうしたら涙なんか見せないから」
 彼女――いや祐巳は、聖母の微笑みで答えてくれた。そして、またこう言う。

「おはようございます、祥子さま。ごめんなさい、お断りします」



 ポットを傾けると、珈琲の芳醇な匂いが食卓を包んだ。朝は珈琲だ。
 ゆったりとした時間があるときならば、のんびりと紅茶を楽しみたいところだが、朝食には珈琲が似あっている気がしている。コーヒーメーカーを使えば手軽に入れられるし、目もぱっちりとさめる。もっとも子供の頃、父や祖父が朝食時に飲んでいたのを見て育ってきているので、それを無意識にまねているだけかもしれないが。
 チン、とトースターがトーストをはね上げた。
「何枚食べますか」
「今日は一枚でいいわ」
 祐巳がバターを塗って、トーストを私のプレートに載せてくれた。さくりと口に含む。うん、焼き加減は大変よし。
「それにしても」
 くすくすくす、と祐巳が笑った。
「今度は『泣き落とし』ですか」
「う、なによ。おかしいかしら」
「ええ、おかしいです」
「これでも考えたつもりだったのよ」
「だいたい、あんな手に引っかかるわけないでしょう」
 祐巳は、ずずっと珈琲を、いやカフェオレを啜った。たっぷりの牛乳を入れるのは胃腸を守るため、山盛りの砂糖は血糖値を上げて早くに目を覚ますためだそうだ。
「なによ。昔は、私がちょっとでも涙を見せたら、『お姉さま大丈夫ですか!』といって、ボロボロと涙をこぼしてくれたというのに」
「そういえば、そうでしたかねぇ」
 卵を口の中にほおり込みながら、祐巳は首をかしげて見せた。私はフォークを握りしめて、力説した。
「ああ、あの頃の従順で子犬のような、初々しい祐巳が懐かしいわ…」
「初々しいのが懐かしい、と言われてもですねー」
 祐巳は食べる手を休めて、ため息をついて見せた。む、なんなの、その困った姉だなぁという表情は。
「私とお姉さまが暮らし始めてから、何年経っているとお思いですか」
「学生時代からだから、5年くらいかしら」
「ええ、きっちり5年です。最初に出会ってからだと、7年と9ヶ月ですよ」
「そんなにもなるかしら。でも初心忘れるべからずというじゃないの」
「人間日々成長するものなんです」
「成長なの?それ、成長なの?」
「もう、馬鹿なことばかりいってないで、早く食べてください。飛行機の時間に遅れちゃいますよ」
 壁掛け時計に目をやると、そろそろ出かけなければならない時間が近づいていた。私は珈琲の残りを流し込むと、立ち上がった。今日の後片づけは私の番なので、食べ終わった食器に手をやろうとすると、祐巳がさっととりあげた。
「今日はやっておきますから、お姉さまは支度をしてください」
「ええ、ありがとう」
 今回は、海外出張なので遅刻という事態は避けたい。というよりあってはならない事態なので、ありがたく祐巳の好意をうけとることにした。
 身支度を終えて玄関に向かうと、すでに祐巳が待っていた。靴を履こうとする私の手からショルダーバックをとりあげる。海外出張とはいっても、荷物になりそうなものは事前に送ってあるので、私の持ち物はこのショルダーだけだ。
「お帰りは4日後でしたね」
「ええ。でも寂しいからって、電話をかけてきちゃだめよ」
「それはお姉さまの方じゃありませんか」
「そうかしら」
 靴を履き終えて、ショルダーを受け取ろうとすると、逆に手を引かれてひきよせられた。
「……忘れ物です」
 ついと顔が突き出される。こういうところは、初々しいのかなと思いつつ、私も首を伸ばして、唇に祐巳の唇に寄せた。そして、いつもの挨拶。

「行ってきます。愛してるわ、結婚して」
「お断りします。いってらっしゃい、気をつけて」



 ロンドンと東京というのは、どこか雰囲気が似ている。初めて来たときときから、昔馴染の場所へ戻ってきたように感じたものだ。
 ひょっとすると、スケール感が似ているからからかなとも思う。アメリカの街なんかはすべて大きい、すべてがラージスケール。そして大まか。逆にソウルあたりはちまちましている。その点、ロンドンはちょうど日本と同じくらいのスケールのように感じる。あまり外国の街角にいるという気がしない。
 単に、私としっくりくる場所、というだけの話なのかもしれないけれど。

「だからって、ロンドンくんだりまできて、スタバでベーグルというのもどうかと思うのよ」
「まあまあ。手軽だし、こちらの方が話しやすくていいじゃないか」
 目の前には、爽やかに笑う日本青年一人。親戚の上に元婚約者ということで、毎度お馴染すぎる人物。違和感がなさ過ぎるのは、これのおかげというのもあるだろう。いや、お馴染すぎた、と過去形で言うべきなのかもしれないが。
「お子さんと奥様はお元気?」
「マリーは元気だよ。マサルはね、元気がありあまりすぎてるかな。でも頭も良くて良い子なんだよ」
 いつの間に、携帯電話の待ち受けにしている、我が子の写真を押し付けてくるような親ばかファミリーマンになったのやら。『優お兄さま』から『優パパ』になったんだと実感してしまう瞬間かもしれない。
 優さんは今、こちらの小笠原系の会社に勤めている。もちろん、将来はグループ全体を率いていくリーダーの一人と嘱望されていて、海外での勤務はその修業の一環なのだ。まあ、なぜニューヨークあたりでなくて、ロンドンなのか、しかも本人の強い希望で、と思っていたら、答えは1年後にいささかセンセーショナルな形で出たわけだ。
「ところで、そっちはどう。祐巳ちゃんは元気かな」
「ありがとう、とても元気よ。少々憎らしいくらい」
「そうか、相変わらず仲良くやってるようだね」
「そうかしら、そう見えるかしら」
「おいおい、僕にからむなよ。結婚はまだなのかい」
「私は、努力していますとも。ええ」
 今度はこっちが携帯電話を取り出して、ディスプレイを突きつけてやる番らしい。
 メール機能を呼び出して、最新のメールを表示させる。

---------------------------------------------
Subject : Re:愛してます結婚して

すみません。お断りします。
飛行機ではちゃんと眠れましたか?
お土産のリクエストは、珍しい紅茶がいいですね。
帰ってきたら、一緒に飲みましょう。
もちろん、見つけられたらでいいですからね。
柏木さんによろしくお伝えください。
ではご無事のお帰りを待っています。

祐巳
---------------------------------------------

 何故か、優さんに大受けしてしてしまう。
「そうかそうか。まだプロポーズに成功してないんだね」
「ええ、そろそろ1000回目の大台が見えてきたわよ」
「おいおい、数をこなせばいいってもんじゃないだろう」
「わかってるわよ。だから手を変え品を替え…」
 手を変え品を替えの部分を説明してやると、ますます受けるのが癪に障る。
「そんなに笑ったんだから、今度は自分の方のを、成功例として教えて欲しいものだわ」
「ああ、うちかい。うちはね……」
 いつも歯切れの良い優さんが珍しく口ごもった。
「まあ、子供が出来たというのもあるかな」
「なるほど、子供が出来ればいいのね。それでうまくいくのね」
「そんな短絡的な思考じゃ困るよ。第一、君たちは女同士だろう」
「動物実験では、同性同士でも子供を作るのに成功してるのよ。知らないの?」
「こらこら、動物実験レベルのものをいきなり使ってどうする」
 もちろん冗談である。大切な祐巳にそんな危ないものを使わせるわけには行かない。もっとも、その分野の研究を行っている部門には、私個人の資産を使って投資をしているのだけれども。
「まあ、子供のこともあったけど、一番大きかったのはあれかな。この人となら一緒にやっていける。俗っぽく言えば人生一緒にやっていけると思ったんだ。まあ、そこらへんをなんとか説明した」
 照れていた。あの傍若無人我が道を行くな優さんが照れていた。これでは訊いているこっちも照れ臭くなる。
「ロマンチックじゃないわね、それ」
「結婚って、ロマンチックだけじゃすまないからね」
 今度は、人生の先輩、という余裕の表情ですか。私だけおいてきぼりになったようで癪に障る。少し意地悪してやる。
「それじゃあ、私と一緒はごめんだ、と思ったのね」
「さっちゃんも言うなあ」
 からりと笑われてしまう。私も笑い返す。もう引っ掛かりやわだかまりはお互いに無い。
「さっちゃんも僕の人生の大事な一部さ。大切な僕の妹だ」
「ありがとう、優さん」
「祐巳ちゃんとのこと、応援してるからね」
 そう言って、『優お兄さま』はにっこりと微笑んだ。



  次のスケジュールに向かう優さんを見送ってから、ふいに独りで歩きたくなった。ロンドンは異邦人達の街だ。外からの人間が流れ込んできて、観光だろうか、ビジネスだろうか、それとも全く意味もなくか、それぞれの方向へと歩いている。私もその中の一人になって歩く。
 ウエストミンスター橋の真ん中に立ってみる。ここは私のお気に入りの場所だ。
 欄干に背をもたせかけ、ウエストミンスター宮と大時計塔を眺める。細い尖塔が林立する様は、さながら石で出来た静かな森を思わせる。
 日の光で見る落ち着いた佇まいも悪くないが、夜、ぼぅとした光に照らしだされた姿の方が好きだ。
 天候が悪いと、時に橋の上から身体が吹き飛ばされそうな風が吹く。そんなとき闇に浮かび上がる石の森は、凄まじい威力を内に秘めているように見える。
 対岸を振り返ってみれば、銀色に輝くロンドン・アイ観覧車がぶらりと立っている。展望台としてはロンドン一高いらしいけど、ぱっと見には、巨大な自転車のホイールにしか見えない。ちょっと可笑しい。祐巳はこちらのほうが気に入るかもしれないと、ふと思った。いつか連れてきてあげよう。そのときは晴れていて、眺めが良くて、祐巳が笑顔でいてくれるといいな、と思う。
 
 携帯電話が振動して、メールの着信を知らせた。祐巳からだ。
 文面は『来週末、久しぶりに祐麒と瞳子が実家に帰ってくるそうです。どうせなら家族全員集まりたいから、私達にも来て欲しいと母が言ってきました。来週末の予定は空いていますか?』
 私は『予定は空いています。久しぶりに皆の顔が見れるのが楽しみです。お土産は気合いを入れて探しておくわね』と返信した。
 いつもの言葉は入れなかった。祐巳は不思議に思うだろうか。思わなくてもいい。思ってもいい。いや、むしろ悩め悩め。ふっふっふっ。


まあ、焦らなくてもいいだろう。私達二人の時間は、まだまだ永いのだ。






おわり




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送