わたしを包む確かなぬくもり






 今年の春。祥子さまはアメリカの大学を卒業し、日本に帰国された。
 それまでの四年間は、帰国のたびにお忙しい合間を縫って食事をしたり、時にはお家へお招き頂いて泊めて頂いたりと、私のために必ず時間を割いてくださった。遠く海を隔てている間も、三日にあけずメールをやり取りしては、近況を知らせあった。
 あるとき、『日本に帰ったら小笠原の家には戻らず、一人暮らしをしてみようと思っているわ』と祥子さまが書かれたメールに、『私もいずれは家を出て自活してみたいです』と返事をしたら、『では、一緒に暮らしましょうか』と書かれた答えが返ってきて、もちろん、二つ返事で了解した時に。
 ――私は自分の本当の気持ちに気づくべきだったのだと思う。




 祐巳と祥子が暮らすマンションは、都心から少し外れた、住宅街が密集する比較的緑の多い地域にある。南向きの風通しのよい2LDKのこの部屋は、6階建ての5階部分に位置する新築のオートロックのマンションの一室だった。
 その賃料は、卒業を一年後に控えた祐巳がいずれ得ることができる収入を、はるかに上回る金額だったのだけど。「祐巳は今はまだ学生なのだから」と主張する祥子と散々議論を重ねた末、結局祐巳が折れる形となって、半年前めでたく入居の運びとなったのだった。
 祐巳の両親はといえば、「私も初めて実家を離れるわけですし、祐巳さんが一緒ならば、と父や祖父も安心しておりますので」という祥子の一言であっさりと首を縦に振った。といっても、さすがにお気楽な祐巳の両親でも、家賃をまったく負担しないというのは承知しなかったから、多少のやりとりの結果、食事などの家事は主に学生である祐巳が負担し、その上で学生のうちは祐巳の父親から妥当と思われる金額を祥子に支払うということで、一応の決着をみたのだが。


「祥子さんは小笠原財閥のお嬢様だからなあ。祐巳ちゃん、変なものを食べさせないように気をつけないとな」

「お父さんたら!変なものってどういう意味よー??」

「大丈夫よ。祥子さんは祐巳ちゃんが作ったものは不思議に何でも口にあうってこの前遊びにいらしたときにおっしゃってたもの」

「そうだな。祐巳ちゃんはお母さんの娘だもんな。料理が下手なわけがないよな」

「まあ、お父さんたら」

 のんきな両親の会話を聞きながら、まったく、天下泰平とはこのことだと我が親ながらちょっぴり呆れた祐巳だったが、祥子さまと一緒に住めるっていう嬉しさで有頂天になっていたから、一人なんだか不機嫌な顔で「俺、知らないからな」とそっぽを向いた祐麒に、姉離れできてないなあと自分のことを棚にあげて苦笑したのだった。




「あー!お姉さまったら、ニンジン残しちゃダメですってば!」

 夕食の席で、さりげなく祥子さまの皿のふちに集められた拍子切りの人参を睨みながら、祐巳は声を上げた。

「…後で食べようと思っていたのよ」

「嘘です。そうやって食べず嫌いばっかりしてると大きくなれませんよ」

「もう十分大きくなったわよ。それより祐巳、お父さまからお話ってなんだったの?」

「話をそらさないでください。…電話では、家に来るようにって言ってただけで、何の話かは聞いてないですけど。たぶん、山梨のおばあちゃんのお誕生日祝いをどうするか、とかそんな相談じゃないかと」

「そう。祐巳はあまり家に帰らないから、お父さまもきっとお淋しくていらっしゃるのよ。今度の週末は久々にお家でゆっくりしてらっしゃい」

「お姉さまこそお家にはほとんど顔を出されないじゃないですか。それに、週末はお姉さまもお休みなんですから。たまには、その、ゆっくり…」

 一緒に過ごしたいです、と言いかねてごにょごにょと濁した祐巳の言葉を誤解したのか、

「そうね。私もたまには家に帰ってみようかしら」

 と祥子さまが答えたから。
 せっかくの休みを祥子さまの顔を見ずに過ごすはめになってしまった。



 そして土曜日。祐巳が久しぶりに福沢家に帰宅すると、家の中には誰もいなかった。そして、キッチンのテーブルの上には、<祐麒と一緒にお祖母ちゃんの誕生日プレゼントを買いに行ってきます。冷蔵庫にカレーが入っているので、温めてお父さんとお昼に食べてください>とメモが残されていた。
 ということは、お父さんはどこかにいるはず。家の中に姿が見当たらないから事務所にいるに違いない。
 祐巳の父親の設計事務所は、この家の玄関を分けた横手にある。家と職場がごっちゃになっているようなもので、休みの日でも気が向くと事務所にいることも多い。祐巳はいったん玄関を出て、家の玄関よりも少しモダンな雰囲気の事務所のドアを開けた。
「お父さーん。祐巳だよー」と声をかけると、応接室になっている小部屋から「祐巳ちゃん、こっち!」と声がした。

「お父さん、ただいま。お昼ごはんはカレーだって。
…ねえ、もしかして昨日もカレーだったりした?」

 呑気に声をかけながら応接室を覗くと、そこにはお父さんともう一人、若い男の人が座っていた。

「――お、お、お父さん!お客様ならそう言ってくれれば…!!」

 顔を真っ赤にして慌てふためく祐巳に、その男の人はさっと立ち上がりながら笑って軽くお辞儀をして、それから片手を差し出して言った。

「いえ、お気遣いなく。
…はじめまして。寺島司です。お父様にはいつもお世話になっています」

「あ、あの、ごめんなさい。みっともないところお見せしちゃって。
あの、はじめまして。…娘の祐巳です」

 狼狽のあまり差し出された右手を、祐巳は左手で握り返してしまった。寺島さんがぷっと吹き出したから、ますます顔が赤くなって。

「…では福沢さん、僕はこれで失礼します。祐巳さん、いずれまた」

 くすくす笑いながら、さっさと玄関に向かう寺島さんをあわてて見送りながら、お父さんをきっと睨みつけたら、お父さんはちょっと不思議な表情で笑った。



 久しぶりに家族4人そろっての夕食の後。お母さんは食事の後片付け、祐麒はレポートの課題があるとかでさっさと部屋に引き上げてしまった。リビングに残ったお父さんと祐巳の二人がお茶をすすっていると。

「祐巳ちゃん、今日来てもらった話だけど」
 と、唐突にお父さんが切り出した。

「なに?そういえば、お祖母ちゃんの誕生日プレゼント、今日もうお母さんと祐麒が買ってきちゃったんじゃないの」

 やっぱり相談というのは口実で、祥子さまのおっしゃったとおり淋しかっただけなのかな、と祐巳が思ったら、すこし気まずそうな表情でお父さんが言った。

「祐巳ちゃんは、さっき事務所で会った寺島さん、どう思う?」
「どう…って、どういうこと?」

 お父さんの言っている意味がよくわからなくて。きょとんと両目を開いた祐巳にちょっぴり表情を緩ませてお父さんが続けた。

「うん。正直に話すとね。寺島さんが、祐巳ちゃんを気に入ったんだそうだ。それで、正式に紹介して欲しいと申し込んできたんだけど」
「へ?」
 あまりの唐突さに、返事のかわりに間の抜けた声を返した祐巳に。
「つまり、お見合いってことなんだけど」

 お見合い、オミアイ。
 見合って見合って…ってそれはお相撲か。
 えーと。それはつまり…

「えーー??お見合い!!??」
 しばしの沈黙の後。突然大声を上げて立ち上がった祐巳にお父さんは驚いて、飲んでいたお茶を噴出した。




 あまりのショックに、月曜までいる予定だった家を早々に退散して祥子さまと暮らすマンションに戻ると、同じく小笠原の家に帰られていたはずの祥子さまがなぜかいらっしゃって出迎えてくださった。お家に帰らなかったのですか、と訊ねたら、特に理由はないけれど、とおっしゃった祥子さまだったけど。祐巳は、祥子さまがなかなかお家には帰らない理由を、薄々察してはいた。
 共有部分であるリビングのソファに座って今日の出来事をお話しすると、祥子さまはかすかに表情を曇らせた。

「…今年の夏休みに私が父の事務所でアルバイトをしていたときに、その、私を見かけた、らしいんです。…私はお会いしたかどうか覚えてないんですけど」

「…そう。お父様のたってのお頼みなのね」

「まあ…、そんな感じです」

 父親の話は、たっての頼み、というものではなかった。ただ相手は、いわゆる大手ゼネコンといわれる超大口のお客様の御曹司とのことで。祐巳ちゃんが嫌なら断っても良いんだよと言ってくれたけど、父親の立場を考慮すると、はいそうですかとお断りするなんてできるわけがない。

「でも、ちゃんとしたお見合いではなくて、ホテルのレストランで食事をして、少しお話をする程度だそうですから」

「祐巳。それを『ちゃんとしたお見合い』と言うのよ」

「え。…そうなんですか。知らなかった」

 祥子さまはふっとため息をついて。
「もう決まったことなのであれば仕方ないわね。…行ってらっしゃい」
 とソファから立ち上がって、私はもう休むからと言い残してご自分の部屋へ戻ってしまった。
 その後ろ姿は、今日はもうこれ以上祐巳と話す気がないことを明白に物語っていた。

 祥子さまは、大学を卒業される前から、お祖父さまやお父さまから勧められるそれこそ降るような縁談を端から断っている。祐巳は、ヒステリックに電話を叩き切る祥子さまの姿を何度も目の当たりにしていた。家に帰れば、電話を切るようにはいかないから、このところずっとご自宅から足が遠のいているのだろう。そんな祥子さまだから、祐巳が今回の話をなし崩しに了解したこと快く思っていらっしゃらないのかもしれない。
 そりゃ、天下に並び立つものもない小笠原家のお嬢様が断る縁談と、そこそこ成功しているとはいえ個人の設計事務所の事業主が大口のお客様にどうしてもと頼まれた席を蹴るのとは話のレベルが違うけれど。

『行ってらっしゃい』 
 その言葉に、かすかに痛んだ胸。
 ――私は、祥子さまに行くなと言って欲しかったのだろうか。

 一緒に住むようになってから、祐巳と祥子さまの会話は以前と比べて格段に増えた。この春、祥子さまが始められた小笠原グループでのお仕事の話や、卒論に追われる祐巳の軽い愚痴。だけど、互いの将来についてはあまり触れられることはなかった。それは、会話の端々でさりげなく、そして注意深く回避されていたけど、それでも常に二人の間に重く横たわっていて、きっとお互い暗黙のうちに、口にしてはならないことのように感じていることを祐巳は知っていた。祥子さまもまた、二人が暮らすこのおままごとみたいな日々を心から楽しいと思ってくださっていることを祐巳は知っていたし、祥子さま自身もそれは度々口にされていたから、この生活もいつかは終わりが来ることを寂しいと思っていてくださることはわかっているけど。

 祥子さまと暮らす今は、あまりに楽しくて嬉しくて。二人で夕食を食べたり、他愛のない会話で夜更かししたり、週末には買い物をして、時には少し遠出することもある。そして祐巳は、夜になってそれぞれの部屋に戻る瞬間をいつも名残惜しいような切ないような気持ちで迎えていた。
 高等部を卒業してからはさすがにタイを直される事はなくなったけれど、時折祐巳が落ち込んだときなどはぎゅっと抱きしめてくださったり、ふざけるように頬に軽く触れるだけのキスをしたり、そんなささやかなスキンシップが、いつも祐巳の鼓動を止めるほどのドキドキを与えた。
 祥子さまと祐巳は、たぶん友達じゃない。そして、恋人でもない。高等部のときはつゆほども疑問に思わなかった「姉妹」という関係は、今になってはこれほど確かで、これほど不安定なものはないように感じられた。

 祥子さまとずっと一緒にいたいけど。日本、いや世界でも有数の大企業を擁する小笠原グループの跡取りである祥子さまは、今は社会勉強の一環として祐巳との生活を送っているが、いずれは、お祖父さまやお父さまが持ってくる縁談の一つを受け入る日が来る。そうなったら祐巳は―。祥子さまと暮らすこの日々の幸せを、いずれは手放さなければならないことを想うと、祐巳はいつも泣きたいような気持ちになるのだった。



 実習だの卒論だのとなんだかんだ日々を送っていたら、あっという間にお父さんとの約束の日がきてしまった。
 あの日以来、この件に関して祥子さまとお話しする機会はなかった。いや、もしかしたら敢えてお互いにその話になるのを避けていたのかもしれない。

「ではお姉さま、行ってまいります」

「祐巳」
 リビングの窓際に置かれたチェストに腰掛けて本を読んでいた祥子さまに声をかけると、祥子さまは本を置いて立ち上がって、祐巳のすぐ傍まで歩いてきた。そして手を伸ばすと、祐巳の一張羅のワンピースの襟元を飾る小さなリボンをそっと直して言った。
「…気をつけて行ってらっしゃい」
「…はい」
 答えた祐巳が、ふとなにかに気付いたようにえへへと笑う。
「でも、久しぶりですね。こうやってお姉さまに襟元を直していただくの」
 そうね、と軽く目元をほころばせて答えた祥子さまは、すぐに眉を顰めて、
「ぐずぐずしていると遅刻してよ。お父さまがお迎えにいらしているのではなくて?」
「あ!そうでした。では、行ってまいります」
 あたふたと玄関を出ていく祐巳を、祥子さまはため息と共に見送った。


 マンションの前の道は少し狭くて、慣れた人でないと進入しづらいということで、車で迎えに来てくれる約束のお父さんとは、大通りのコンビニエンスストアの前で待ち合わせた。
 祐巳がコンビニに到着すると、二台分ほどの幅しかない駐車スペースには、既に福沢家の白いカローラが停められていた。祐巳が近寄って、後部座席の窓をこんこんと叩くと、運転席のドアを開いて顔を除かせたのは、弟の祐麒だった。

「あれ?祐麒。お父さんは?」
「なんか、用事ができたって先に出た。俺に予定の時間通りに祐巳をホテルに連れて来いって」
「じゃあ、お父さんとは向こうで待ち合わせなんだ」
 せっかくの日曜なのに悪いね、と謝りながら助手席に乗り込むと、祐麒が運転するカローラは滑るように発進した。祐麒の運転は、特にテクニックが優れているというのではないけれど、すごく丁寧で慎重だ。野郎を乗せてるときはガンガン飛ばすけどね、と言っていたから、もしかしたら祐巳やお母さんに特別気を遣ってくれているのかもしれないけど。

 約束のホテルは少し都心を離れた郊外にある。車では40分ほどの距離だった。道のりを半分ほど過ぎて、それまでぼんやりと物思いにふけっていた祐巳は、発進してからずっと沈黙が続いていることに気がついた。そういえばここ最近、正確に言えば祐巳が引っ越して以来、祐麒とはあまり話をしていなかった。

「祐麒。最近どう?」
「…どうって何が」
「いや、なにか変わったことあったかなあって思って」
「べつに」

 にべもない祐麒の返答で会話が終わって、車内は再び沈黙に包まれた。今日これからのことで頭がいっぱいで祐麒の様子にこれまで気付かなかったけど、ハンドルを握る祐麒の横顔は不機嫌そのものといった表情を浮かべている。百面相の異名を取る祐巳よりは、多少は制御可能とはいえ、祐麒もかなり考えが顔に出るほうだ。
 ちょうど赤信号で停車したから、祐巳は祐麒の顔を覗きこむようにして訊ねた。

「ねえ祐麒、なんか怒ってる?」
「…べつに」
「日曜にお見合いの運転手なんか頼んじゃったから?
だからごめんってば。お父さんが来られないって知っていたら
電車で行っても良かったんだけど」

「…祐巳、おまえさ」
 ハンドルに頭をがっくりと垂れた祐麒が、はぁーっと大きなため息をついた。

「俺ホント、祥子さんに同情する」
「祥子さまになんの関係があるのよ」
「…祐巳、鈍感なのもそこまでいくと犯罪モノだぜ。祥子さんの気持ち、考えたことがあるのかよ」
「…祥子さまの気持ちって?」

 祐麒はそれに答えずに、青信号に従って車を走らせ始めた。車の揺れに身を任せながら、祐巳はさっきの祐麒の言葉を胸の中で繰り返した。
 祥子さまの気持ち。高等部時代からもう6年の付き合いになるから、祥子さまのお考えはかなり察することができるようになっている。それでも、お気持ちが手に取るようにわかるときもあれば、何を考えているのか全然わからないときもあって、些細なことから軽く衝突することは今でもしょっちゅうだけど。でも、それを祐麒に指摘されるのはちょっぴり癪だった。

 途中の道が少々渋滞していたせいで到着の予定の時間を少し過ぎてしまった。ホテルのエントランス前に車を停めながら、祐麒がぽつりと呟いた。
「ま、祐巳が本当にそれでいいんだったら、俺が口を挟むようなことじゃないから」
 祐麒が知っている祥子さまのお気持ち、というのについてもっと話をしていたいと思ったけど、遅刻をするわけにはいかない。ハンドバッグを掴んであたふたと車を降りる祐巳に向かって、祐麒がもう一度、今度ははっきりと言い放った。
「祐巳、いいのかよ」
 その少し責めるような口調が、祐巳の胸にちょっぴりしこりを残した。


 ホテルは周囲を見下ろす高台の上にある。宿泊や食事のほか、大小の会合に使われる宴会場や別棟を備え、いくつかのブライダル施設も整った大きな建物だった。少し息を切らして待ち合わせの喫茶室に入ると、窓際のテーブルに座ったお父さんが軽く手を上げて合図を送ってきた。

「ごめんなさい。遅くなっちゃって」
「いや、まだ待ち合わせまで十分時間があるよ。先方もまだお見えになっていないから、祐巳ちゃんも何か飲んで落ち着きなさい」

 運ばれてきたセイロンティーにミルクとお砂糖をたっぷり入れて一口すすると、ようやく呼吸が元通りに回復した。

「…あちらは、お一人でお見えになるそうだ。あまり大勢でこられると祐巳ちゃんが落ち着かないだろうと仰ってね」
「…うん。そのほうがいいと思う」

 相手の方――寺島さんは、写真、身上書、家族書、親族書、健康診断書などなど、いわゆる釣書といわれる書類を一式、ご丁寧にも自ら持参していた。聞けば、お父さんの事務所で祐巳とばったり会ったその日が、書類を届けにきた日だったらしい。祐巳は、そのどれにもまだ目を通していない。興味がないわけではないけれど、経歴や財産などで人を判断するようでなんとなく気が引けたから。
 ただ、お父さんとは花寺の話で盛り上がったと聞いていたから、祐麒と同じ花寺学院の出身であることだけは知ることができた。

 寺島さんは予定の時間きっかり30秒前に現れた。
 簡単な自己紹介の後、同じホテルの中の予約を入れたフレンチレストランに向かって歩いている時、お父さんと雑談を交わしている横顔をちらっと見たら、おなじようにこっちを見ていた彼と目が合った。あわてて目を逸らしたが、祐巳はにこりと微笑んだその微笑を好ましいと感じた。
 彼は、祐巳より7歳年上だと言った。


 レストランで通されたテーブルは、「個室」との予約だったが、壁ではなくて低い手すりと植え込みで仕切られて周囲の声が届かないように工夫された開放的なスペースになっていた。受付で予約の名前を名乗ると、慌てて飛び出してきた支配人らしき人物の様子から、寺島さんがこのレストラン、いやこのホテル全てに対して大きな影響力を持っていることが窺い知れた。
 席について、飲物が運ばれてくると簡単な自己紹介とともに会食が始まった。初めはお父さんと寺島さんの会話を黙って聞いていた祐巳だったが、話上手で聞き上手な寺島さんのペースにうまく乗せられて、気付くと和やかな笑い声がその場を包んでいた。

「柏木優くんか。懐かしいな」
 ひょんなことからお父さんと祐巳の話題に上った名前を耳にして、寺島さんが相好を崩した。

「ご存知なんですか、柏木さんを」
「うん。年齢が違うから在学時期が重なったことはなかったけどね。僕は花寺の大学を卒業してアメリカのビジネススクールに2年留学してたんだけど、帰国のたびに花寺のテニスサークルには顔を出していたから、彼とはそこでね。高等部の元・生徒会長同士のよしみでなんだかんだ接触があったよ」
「そうなんですか。なんだか不思議なご縁ですね」
「ほんとうだね。そうか、祐巳さんは柏木君と知り合いだったのか。彼は面白い男だよね」
「面白い…ですか」

 面白い男。祐巳にとっての柏木さんの印象は、「頭が良くて何でもできてちょっぴり意地悪な大人の男の人」だ。
 その柏木さんをこともなげに「面白い男」なんて言えちゃうなんてすごい。

「うん。飄々としているようで案外負けず嫌いなんだな。テニスで負けるとむきになって何度でも挑んできたよ。自分がこうと思い込んだら、周囲の思惑を気にせず行動するところもあって、目が離せなかった。なんだか可愛く思えてね。――弟がいたらこんな感じだろうかと思ったよ」

 このひと、柏木さんに勝ったんだ。
 自慢するわけでもなく、当たり前のように話す姿勢に好感が持てる。上品で優雅な物腰はどことなく柏木さんに似てるけど、柏木さんのように人を食った印象はなくて。穏やかで余裕がある。きっと、すごく大人なんだ。

「――そういえば以前噂で、どこかのお嬢様との婚約を解消したことがあるって聞いたけど」


 その寺島さんの何気ない一言で、今朝別れたばかりの祥子さまの姿が脳裏に浮かんだ。

 祥子さまは今、なにをなさっているのだろう。放っておけば一日中でも本から目を話さないほどの読書好きでいらっしゃるから、また窓際のチェストに座って本を読んでいらっしゃるだろうか。それとも、お部屋のパソコンの前に座って、お仕事の資料を熱心に眺めていらっしゃるだろうか。どちらにしても集中なさっているときは、日が暮れて部屋が暗くなったことにも、お食事の時間になったことにも気付かないことがあるから、祐巳が教えて差し上げなければいけない。
 そう。お姉さま、と声を掛けたらきっと、あの流れるような黒髪を優雅に揺らして私を見上げて『もうこんな時間なの。気が付かなかったわ』っておっしゃる。そして、誰よりもお美しい完璧な笑顔で私に、ありがとう、と微笑みかけてくださるだろう。――私にだけ向けられる、あの微笑みで。



「――…巳ちゃん」


「…あ、はい!ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃって」

 お父さんに呼びかけられて我に返ると、慌てる顔がよほどおかしかったのか、寺島さんが祐巳を可笑しそうに見つめていた。
「今、寺島さんがこちらのホテルの中を案内してくださるって祐巳ちゃんをお誘いくださっていたんだよ」
「ええ。食事も済んだことですし、少し散歩をしませんか」
 と言って寺島さんは、ありがちですけど、と照れたように笑った。

 お父さんが「喫茶室で時間を潰しているから、ゆっくり回っておいで」と言ったので、寺島さんと二人でまずはホテルの庭に出た。ホテルの正面から見て左手には西洋式の庭園が広がっていて、ブライダル棟が並ぶ右手側には、芝生と花壇が植わっている。祐巳たちが今いる回遊式の日本庭園は、建物の裏手側に位置していた。
 ホテル内を移動する二人に、従業員が恭しく敬礼で見送る様を不思議そうに眺める祐巳に気付いて、寺島さんが遠慮がちに言った。
「このホテルは、僕の父の持ちものなんだ」
「あ。それでみなさん寺島さんのことをご存じなんですね。やっと納得しました」
 思わずぽんと手を打った祐巳をまた、可笑しそうに、眩しそうに見た寺島さんは、静かに言った。

「祐巳さんは、不思議な人だな」
「はい?」
「…今日のこと、強引に話を進めてしまって悪かったね」
「いえ…。でも、どうして私に」

「そうか。祐巳さんは覚えていないだろうな。…三ヶ月ほど前に、仕事で福沢さんの事務所に伺った帰りに、玄関の掃除をしていた祐巳さんに尋ねたんだ。駅前まで出たいのだけど、どこでタクシーが拾えるのかって」
「…そう、でしたか」
「うん。それで、祐巳さんはこう答えた。『1ブロック向こうの大通りにたくさん走ってますからすぐにつかまると思います』って。 それから、笑顔でこう言ったんだ。『日が沈んで涼しくなったから、駅まで歩いたら気持ち良いですよ』って」

 祐巳はなんとなく、そのときのことを思い出したような気がした。ただ、その相手が寺島さんだったかどうかはやっぱり思い出せない。いや、その人はもう少し、歳をとっていた気がする。歳をとって疲れているようだったから、それで――。

「それで、僕は駅まで歩いて帰った。とても気持ちの良い夏の夕方だった。歩きながら、仕事に追われてもう長いことこうやってゆっくり街を眺めながら歩くことなんて忘れていたことに気がついた。そして、僕にそれを思い出させてくれた少女のことを考えていた。――いっしょに歩けたらどんなに楽しいだろう、って」
「…えっと、それって、私のことですよね」
「そう。だから福沢さんに無理にお願いして、こうやって紹介して頂いたんだ。…無茶なヤツだと思わないで欲しい。これでも三ヶ月もさんざん迷ってやっとの思いで申し込んだんだから」

「…寺島さん」

「本当は、こんなお見合いなんて大げさにしたくはなかったんだけどね。でも、僕は女性に対してあまり器用な人間ではないし、それに、気軽に誘ってこのことを軽く見ているとは思われたくなかったから」


 このことを軽く見ていないってことは…。祐巳の表情からそれと察したように、寺島さんは立ち止まって頭ふたつ分ほど低い祐巳の顔を覗きこむようにして言った。


「僕と、将来を視野に入れて、付き合ってくれませんか」


 寺島さんのその言葉が、夕暮れの突風のように祐巳の中をかき乱して、吹き過ぎた。
 そして、その後に残ったのは、最後に見たあの人の横顔。


 祥子さまは、ヒステリックで傲慢で、我がままで偏食で。
 だけど。だけど本当はとっても優しくて真面目で不器用で。
 美しさや凛々しさや賢さや優雅な物腰は、あの人をかたち創るほんの一部に過ぎなくて。
 ――本当に大切なのは、祥子さまが傍に居るという、確かな温もりだけだった。


 寺島さんはすっごくいい人だ。きっとこの人と結婚したら、暖かい笑いに満ちた福沢家のような家庭を築けると思う。それは祐巳の理想の家庭だ。


 ――だけど。


「…君の表情は、言葉より多くを語るんだな」


 うつむいて、今にも泣き出しそうに唇をかみ締めて、祐巳はやっとの思いで謝罪の言葉を口にした。


「…ごめんなさい」


 ――だけど、この人は祥子さまじゃない。


「…あの、本当に、ごめんなさい…」

 寺島さんは、ふうっと大きくため息をついて、それから祐巳に微笑んだ。

「いいんですよ。謝られてはこちらが余計に悲しくなってしまうから。
祐巳さんは、笑っている顔が一番似合う。
いつまでもその笑顔を見ていたいと思ったけれど。
――祐巳さんの心には、僕が入る隙はなさそうだ」

 最後の言葉で目を上げると、寺島さんは微笑んだままの瞳で、祐巳に尋ねた。


「想う人が、いるんだね」


「…はい。います。全てを捨てても、ついていきたい方が」


 祐巳の言葉に、初めて見る真剣な表情で、寺島さんが言った。

「では、その人のところに行きなさい。
きっと、その人も同じように祐巳さんを想っているはずだ」

「いいえ。同じじゃないんです。
…私と同じ気持ちでは、いてくださるわけがないんです」

「それは勘違いだ。君を知って、君を想わずにいられる人間はいない」

「そんなこと…」

 逡巡するように視線を巡らせた祐巳の肩をそっと押し出すように手を添えて、寺島さんがきっぱりとした口調で祐巳に命じた。


「行きなさい。その人のところへ。駆けて行きなさい――振り向かないで」

 その声に、祐巳ははっと顔を上げた。
 そして、一歩後ずさると深々と一礼を残してくるりと振り返ると、もう二度と振り向かずにその場を駆け去った。胸いっぱいに溢れる、ごめんなさいとありがとうの言葉を、いつかまたどこかで会う日までの宿題にして。

 ホテルのエントランスを飛び出すと、祐巳は大きく手を振ってタクシーを招き寄せた。滑るように近づいてきた黒塗りのタクシーを遮るようにして、横合いから一台の白い車が飛び出して祐巳の前に停まった。抗議するようにブブッーと鳴らされたタクシーのクラクション。助手席側の窓ガラスがスルスルと降りて、運転席には祐麒が座っていた。

「祐巳、早く乗れ!」
「祐麒…!」

 驚いて動きを止めたのは一瞬のこと。
 急いでドアを開けて助手席に乗り込むと、車はすぐに発進した。

「悪いけど、いつもみたいに運転に気を遣ってられないからな」
「わかってる。…ありがとう、祐麒」

 ――祐麒の言ったとおり、それからの運転はあの聖さまもかくやと思われるほどの見事な暴走っぷりだった。



 

 ぼんやりと窓辺のチェストに腰掛けていた祥子は、ドアを開けた祐巳の姿を見て、がたりと立ち上がった。もうずっと前からページを閉じられたまま膝に置かれていた本は、立ち上がると同時に床へと音を立てて滑り落ちた。


 カーテンを開け放した窓から入る秋の夕陽に照らされて、陰になった祥子さまのお顔はまったく見えなくて。
 正面から突き刺すような日差しに目が眩んで、――いや、さっきから目の前が滲んでよく見えないのは日差しのせいではなかったのかもしれないけど。

「――祐巳!どうしたの?もう、終わったの?」

 祥子さまが矢継ぎ早に尋ねる間に祐巳は傍に駆け寄って、祥子さまの膝を抱えるように両腕を回して、足元に崩れ落ちた。祐巳にすがりつかれた祥子さまは、倒れるようにチェストに再び腰を下ろすと、少し慌てながら祐巳の肩を起こして訊ねた。

「祐巳?」


「…お姉さま。私。――わたし、お姉さまのお傍にいたいです」


 掠れてくぐもった、奇妙な声。祥子さまの膝にすがって、押さえつけていた気持ちを吐き出すように、繰り返す。
 夕陽に照らされた部屋の中はすべてが黄昏色に染め抜かれていて。
 陰になった部分の漆黒とのコントラストはまるで絵画の中の風景のようにその場から現実感を奪っていた。

「私は、いつまでも、お姉さまのお傍にいたいんです。
私は、お姉さま以外の人と一緒に暮らすなんて考えられない。
今までも、これからも。…お姉さまと一緒にいたいんです。
お願いです。お傍に置いてください。
…お姉さまがたとえ将来、誰と結婚されても、私は…」

 堪らず溢れだした涙が頬を伝って次から次へと流れ落ちてゆく。
 こんなことを言われて、祥子さまはお困りになるに違いない。
 それでも、吐き出さずにいられなかった気持ち。
 傍にいたい。誰よりも近くで、祥子さまを見ていたい。私は、祥子さまが――

「私は、お姉さまが好きです。…誰よりも、何よりも、好きです」


 その言葉を、祐巳が言い終わらないうちに。
 祥子さまが倒れ掛かるように祐巳を抱きしめた。
 腰掛けていた三本脚のチェストががたんと音を立てて倒れた。
 祥子さまは床に膝をついて、座り込んでいる祐巳の頭を抱きかかえるように、強く強く体を引き寄せた。
 そして。一瞬身を引いて体を離した祥子さまは、すぐに頬を伏せるように顔を傾けてから。
 祐巳の唇に、深く口付けた。
 ――それはあまりに突然の出来事で。
 体が硬直して目を閉じることも息をすることも忘れて。祐巳はただひたすらに残照に照らされた祥子さまの横顔を見つめ、唇に押し付けられた温もりだけを感じていた。


 やがて、永遠とも思える時間が過ぎて、ゆっくりと体を起こした祥子さまが祐巳の手をそっと引いて立ち上がらせた。部屋は、いつの間にか薄暗い夕闇に転じていた。静かに歩き出した祥子さまに手を引かれてリビングを抜けながら、祐巳はぼんやりと、お姉さま、また明かりをつけるのをお忘れになってる、と思った。
 祥子さまの手に導かれるまま、祥子さまのお部屋に入る。きれいに整頓されたお部屋は、リビングと方角が違うせいでまだ少し夕陽の名残が差していたけど、それも急速にかげりを増してゆく。
 明かりをつけなきゃ、と思った祐巳が電灯のスイッチのありかを探して頭を廻らそうとすると、ふいに祥子さまの手が祐巳の手から離れて、そのまま両脇の下から回された。
 背中を支えられながらゆっくりとベッドに倒れこんで、祥子さまのお顔を下から見上げたとき、最後の夕陽が祥子さまの横顔を照らした。その真っ直ぐな眼差しを受けて。――祐巳は、祥子さまが明かりをつけなかった理由を悟って、静かに目を閉じた。


 吸い込まれるように薄れてゆく部屋の明るさが、祐巳の目に映る家具や部屋の輪郭を徐々に奪ってゆく。
 かわりに、手に顔に肩に髪に身体に、何よりも愛しい温もりがその隙間を急速に埋め尽くしていった。



 

 気がつくと、肌に張りつくシーツの暖かさのほかに、自分以外の温もりがすぐそばに感じられた。
 と、眠っていると思ったその温もりが静かに動いて、甘い息遣いが祐巳の唇を探り当て、軽く触れるとそのままするりとベッドを抜け出し、部屋を出て行った。
 祐巳は身体を起こして、脱ぎ捨てた服を手探りで身に着けると、暗闇の中でベッドの端に腰掛けて、自分の体の隅々に意識を向けた。
 先ほどまで感じていた疼きはもうない。かわりに、奥深いところに感じるわずかな痛みと多少の脱力感が身体を支配している。
 そして、心を支配しているのは、祐巳を抱きしめたしなやかで力強い腕。サラサラとこぼれ落ち、触れては離れる滑らかな長い髪。言葉より多くの想いを伝えてくれた唇。それから、何度も祐巳の名前を呼んだ甘く切ない声が耳に残っていた。

 祐巳は涙が出そうなほど自分の身体が愛おしいと思った。――愛する人に愛された、この身体が。


 再び部屋のドアが開く気配がして。開けたドアを静かに閉め、部屋を横切ったその気配は、ベッドサイドのナイトテーブルの手前で歩みを止めた。そしてパチリと音がすると、柔らかい光がそれまで祐巳を包んでいた優しい闇を部屋の隅へと押しやった。闇に慣れた目を刺激されて、一瞬目が眩む。
 ようやく慣れた目を開けると、そこには、この世の何よりも愛しい人の姿があった。


 ほの暗い間接照明に照らされて、祥子さまがじっと祐巳を見詰めているのがわかった。
 息を呑むほど美しい、女神様のようなお姿。
 祐巳もまた、祥子さまの瞳をじっと見返す。
 何を考えていらっしゃるのだろう。
 その静かな眼差しは、祐巳に何を伝えようとしているのだろう。
 全てを見透かすように祐巳を見つめた瞳に、ふと陰が差した。

「…祐巳。私は…」

 それだけ言って口をつぐんだ祥子さまの瞳によぎった陰りに、微かな後悔の念を感じた祐巳は、早まる鼓動を押し殺して訊ねた。

「…後悔、していらっしゃるのですか?」

 隠し切れない不安に震えた祐巳の声が耳に届いた瞬間。
 祥子さまは迷いを振り切るように、肩を聳やかして、凛とした力強い声で一気に言い放った。

「いいえ、後悔などしていないわ。
…祐巳は、私が居なくてもきっと誰かと幸せな家庭を築けるでしょう。
私と居ればあなたは、他の人達のような穏やかな幸せはつかめないかもしれない。
私は、きっと祐巳に重い枷を背負わせることになるもの。
――だけど私は、祐巳が居ないと駄目なの。祐巳が居なくては、幸せにはなれない。
私は、祐巳が欲しい。祐巳にいつもまでも傍にいて欲しい。
…高等部の頃からずっと求めていたものが、やっと手に入ったのよ。もう二度と手放すことなんてできない。
私は、あなたを守りきることができないかもしれない。もしかしたら、苦しめてしまうかもしれない。
それでも、後悔などしていないわ。ええ、我ままでも傲慢でも構わないわよ。
――だって私は、祐巳と幸せになりたいんですもの」

「…お姉さま」

 祥子さまが意味する重い枷。それは、小笠原家を取り囲んでどろどろと渦巻くどす黒い謀略を垣間見た高等部時代の夏の日の出来事。
 この先に、あの時と同じことが、比べ物にならないくらいその苛烈さを増して襲いかかってくるだろう。
 そればかりではなくて。二人の前に数えきれない困難が待ち受けていることは、祐巳にも容易に想像できた。
 ああだけど。愛する人と共に歩むことができるなら、それがなんの障壁になるだろう。

 ――いいんです。構わないんです。私は、祥子さまと一緒なら、きっとどんなことでも乗り越えていけるから。

 祐巳の瞳から、まぎれもない承諾の意を汲み取った祥子さまは。このうえなく優雅なしぐさで片膝を折って、祐巳の前にひざまずいた。
 祥子さまの左手が、脇に下げられた祐巳の左手をそっとすくうようにして持ち上げた。それから、祥子さまはあごを上げて、祐巳の目をじっと見上げた。
 その目は、包み込むように暖かくて、祐巳がこれまで見たこともないくらい真剣だった。


「祐巳、私と結婚してくれる?」


 初めて目にした時から、ずっとずっと追いかけ続けたその姿が祐巳の目の前にあって。あのロザリオを受け取った遠い学園祭の夜に、いつまでも踊り続けていられると感じたワルツの調べは、途切れることなく今その旋律を変えて二人を次のステップへと緩やかに誘ってゆく。
 自分は、祥子さまにはふさわしくないかもしれない。だけど、祐巳を選んだ祥子さまを信じて、祥子さまのリードに任せて、至らない自分を変えていこう。
 祐巳は、あの時と同じように、自分に号令をかけた。

「はい、お受けします」

「…ありがとう」

 祥子さまは、右手に持ったリングをそっと、祐巳の左手の薬指にくぐらせた。
 そして、抑えていたものが急に溢れ出したように、大きく腕を広げて祐巳を固く抱きしめた。


 

おわり

 

 

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