奥様、お手をどうぞ





「祥子さん、私と結婚してください」
「……祐巳? 貴女何を言っているの?」
祥子さまはそこまで言って言葉に詰まり、祐巳の顔を眺めた。


* *


 「祐巳。……大学を卒業したら、私と結婚していただけないかしら?」
 「はい?」

 祐巳が、「お姉さま」こと世間一般的に言えば高校時代の先輩にあたる小笠原祥子さまに求婚されたのは、彼女が大学の最終学年に入った桜の咲く季節だった。
 その日は祐巳の22回目の誕生日であり、二人が暮らすマンションでお祝いをして。本当は祥子さまはディナーの予約を入れたがっていたのだが。しかし、今春から社会人として彼女の一族傘下のグループの一つで働いていらっしゃる祥子さまにゆっくりした時間を持ってもらいたいという気持ちもあり、また、二人水入らずで過ごしたいという思いもあって祐巳が望んだ場所だった。
「ごめんなさい。こういうことはロマンチックにするべきなのでしょうけれど。だけど、貴女の誕生日だし、言ってしまいたくなって」
 誰かに先を越されたら困るから、って。そんな心配は無用です…と言いかけると貴女は自分の魅力がちっとも分かっていないのねと溜息を漏らされる。いえ、本当にそんなことはないと思うんですがと思っていると、静かに手を取られた。
「私との結婚、考えていただけるかしら」
真摯なまなざしが目の前にあった。
「……お姉さま。ちょっと今、何が何だかわからなくなってきましたー…」
 祐巳は、お祝いとして先ほど飲んだシャンパンの酔いも相まって、一気に顔を真っ赤にしたあと、力が抜け、ずるずると椅子から滑り落ちそうになってしまった。
「あ、祐巳!?」


「大丈夫? もう落ち着いたかしら」
「……大丈夫です。すみませんでした」
 冷たいタオルを額に当てられ、ソファーで介抱されたあと、祐巳は情けない声を出しながら起き上がった。
「ええと、お姉さま。先ほどの件は、冗談…ではないのですよね」
「もちろん、本気ですとも。……それで、返事はどうなのかしら」
 祐巳の『冗談』という言葉に美しい眉をしかめて語気強く言い出したものの、最後のほうの語尾はやや弱くなった。普段は強気な祥子さまが時折見せる可愛らしさも大好きなんですが。というか今はそのようなことを考えている場合ではなくて。
「そ、それは……うれしいんですが」
「……『ですが』ということは、受け入れてもらえないのね。そうね、貴女にも選ぶ権利があるものね」
うなだれ、一気に落ち込んだ雰囲気をかもし出す祥子さまに、祐巳が額に当てていたタオルを慌てて取り払う。
「祐巳、ごめんなさい。貴女の誕生日なのに変な話をしてしまって……」
「違います! 本当にうれしいんです!! ですが、いろいろと…!」
 焦った祐巳の声がマンションのリビングに響き渡った。


 祥子さまの心の中では、もし受け入れてもらえたら、祐巳の大学卒業とともに満を持して華燭の典を挙げる計画がふつふつと燃え盛っていたらしい。しかし祐巳にだって準備というか、心積もりというものもあって。出てきた言葉は「卒業後、一年待ってください」というものだった。
 仕事にも慣れ、社会人としての生活も出来てから家庭を持ちたいという祐巳の願いも分からないでもない。そういう律儀なところも好ましいと思ってきた祥子は渋々ながらも納得し、二人は婚約期間というものを置くことになった。
 婚約期間とは言っても、生活にさして変わりは無かった。二人は一つ下の祐巳が大学に入った年に同居を始めたのであり、その生活ももう4年目に入っていたのだから。由乃さんからは「万年新婚」とからかわれている状態はといえば相変わらずだったし。変化といえば、在学中から既に仕事のプロジェクトに手を染めていた祥子さまが、大学を卒業して更に帰りが遅く不規則になったことくらいだ。もう一つ挙げるとすれば、祥子さまが「私の婚約者の祐巳です」とにこやかに祐巳を紹介するようになったことか…。


そして祐巳も大学を卒業し、社会人となった。二人は来年の6月に挙式を挙げようという計画のもと、準備を進めている。6月は高校時代の二人が仲違いをして、互いの気持ちを確かめ合い、更に絆を強めることができた季節でもある。挙式にはその時期を選んだ。そしてまたそれは、世間一般から幸せな結婚のイメージを髣髴とさせる月でもあった。
祐巳はともかく、祥子さまは日本屈指の一族企業である小笠原グループの一翼を担っている人物としての注目度も高く、結婚が一年後とはいえ、準備には相当の時間と配慮が必要であった。
長雨の季節も去り、二人の新しい生活へも一年をきったある雨の夜。
またも深夜の帰宅となった祥子は、ぼんやりと雨の音を聞いていた。つと窓辺により、薄く開けたカーテンから外を眺める。一年を切った新しい日々を思いながら、ガラスの向こうに見える闇と雨の音に、ふと過去の追想が頭をもたげる。
(懐かしいわね……)
 二人が仲違いをした当時の日々を、夜の窓に流れる水滴を見つめながら思い返す。あのとき自分は打ちひしがれ、嘆きの渦の中でもがいていた。その自分のもとへ駆けつけてきてくれた蓉子。姉と慕ってきた彼女が見せた哀しそうな瞳。そのまま自棄の淵に飲み込まれようとしていた自分の手を取り、救い上げてくれたのは、蓉子が連れてきてくれた祐巳だった。
 ……本当に、自分は暖かな人々に支えられて生きてきたのだ。そういう暖かな人々に出会わなかったとしたら、自分は冷たい容器の中で暮らしていくことになっただろう。表面的には満ち足りていると羨望される、閉じた世界の中で。
「お姉さま。」
後ろから声をかけられ振り向いた先には、今も自分を照らし続けてくれている愛しい存在。
何故だか不自然に顔がこわばっている。
「ええと。突然なんですが。本当は別の日にしようと思ったのですが、私が働き始めて3ヶ月分のお給料も出ましたし、お姉さまはお忙しい身ですし……」
しどろもどろになりつつ、続けざまに言葉を羅列する祐巳の様子に首をかしげる。
「どうしたの祐巳? 落ち着いて」
窓辺から離れて彼女の傍に寄り、うっ、と言葉を呑み込んでまっすぐに自分を見つめる瞳と対峙する。顔を紅潮させた祐巳が、再度思い切ったように口を開いた。
「祥子さん、私と結婚してください。」
「……祐巳? 貴女何を言っているの?」
 既に目の前の相手と婚約中の身である祥子は、少々の驚きとともに呆然となる。


「給料の3ヶ月分だっていうのは、販売促進の宣伝文句だっていうのは、分かったんです。だけど、私にも祥子さまへ私の心を贈らせてください。」
 祐巳がおずおずと差し出したのは、輝く石を頂いたものを納めているだろうケースで。
「…だけど貴女からはもう、指輪はいただいているわ」
「だってそれはファッションリングじゃないですか。私だって、自分で働いたお金でプレゼントしたかったんです! ……そりゃあ、給料の3ヶ月分まるまるを今全部差し出せたわけじゃないんですが……」
 ちょっと恥ずかしそうに祐巳が言い募る。二人は現在までに、それぞれ指輪を贈りあっている。その際、祐巳は『貴女は学生なのだから気にしないで』という祥子の言葉をはね返し、バイト代と貯金で指輪を購入した。しかし祐巳としては、それでは納得いかない心情がくすぶっていたということらしい。そして今回、祐巳は自分の給料分を換算し、不足の分は貯蓄で補って自分が納得できる婚約指輪を購入したということらしい。
二人が生活するマンションは小笠原の持つ不動産の一部ということで、入居費は祥子の出し分、その他の生活費は基本的に折半という形を取っている。身の丈にあった生活をという信条のもと、二人とも過剰な贅沢はしない。その中から密かに捻出されたのであろう結晶に、祥子は目を向けた。
「……貴女は、本当に馬鹿ね」
 祥子がぽつりと呟いた言葉に、しゅんとした耳と尻尾が見えるような気がして、急いで言葉を続ける。
「本当にバカね。私がどんなに嬉しいのか分からないなんて」
 バネ仕掛けのようにパッと上がった顔に微笑み、すっと顔を寄せ
「ねえ、はめてはくれないのかしら?」
耳元で囁いた。
「は、はいッ!」
 ぶんぶんと首を振る、高潮した頬と輝く瞳に、愛しい気持ちが溢れてくる。
 差し出された指に指輪を通す瞬間はお互いに息を詰め。ゆっくりと呼吸を吐き出した。
 祥子は、照れくさそうに微笑んだ婚約者の肩口に額を乗せる。
「祐巳ありがとう。貴女の心、大事にするから。貴女はどうして、いつも私に幸せをくれるのかしらね? そんな貴女が大好きなの」
 祐巳も、何だか泣きたいような切ない気持ちになった。それはこちらの方なのに。


この世界には何億もの幸せがあって。
その中でも一番の幸せをくれるのが貴女です。
ささやかだろうけれど、貴女に幸せを贈れる自分になりたい。
今はほんの小さな幸せでも。自分だけが贈れる幸せがあればいいと願う。
できなければ努力すればいいし、そう努力し続ける自分でありたい。


祐巳は改めて彼女の手を取りそこに唇を落とした後、空いている手で肩を抱き寄せ、その艶やかな黒髪に恭しく口付けた。




おわり




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